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こんにちは、隣雲(りんも)です。
私の「日本の商道徳の系譜」を辿る旅として、先ずは日本資本主義の父こと、渋沢栄一「論語と算盤」をまとめました。
次に取り掛かったのは、渋沢が規範とした孔子の「論語」という流れですね。
・・・そして次にまとめるのが、今回の「孟子(もうし)」となります。
孟子は自らを「孔子の後継者」と自覚して、その教えを後世に繋ぐ重要な役割を果たしています。
渋沢栄一も「論語」の引用はもちろん、「孟子」の引用も多くしているんですよね。
崇高な理想の政治を求めて、もがき続けた「孟子」の魅力に迫りましょう!
目次(お好きな所からどうぞ)
亜聖『孟子(もうし)』とは? どんな人?
孔子は後世の人々に「聖人」と称されましたが、孟子は聖人に次ぐものとして「亜聖(あせい)」と位置付けられています。
他に「亜聖」と位置付けられているのは、孔子と同じ時代を生きた弟子である「顔回(がんかい)」のみです。
・・・孟子は孔子の没後からは、約100年後に生まれた人物で、孔子からは直接の指導を受けていません。
それにもかかわらず、後世に多大なる影響を与えた、孟子という人物。
彼は一体どのような人だったのでしょうか?
人物『孟子』のプロフィール / 略歴
孟子は孔子の没後(紀元前479年)から、約100年後の鄒(すう:現在の山東省鄒城市)で生まれました。
現在から換算すると、約2400年前の紀元前372年生まれと伝えられています。
※明代の「孟子譜」が根拠とされている説

孟子(出典:Wikipedia)
そして、こちらが孟子の肖像画となります。
・・・何やら厳しそうな表情が印象に残りますね。笑
その印象に違わず、孔子の思想を論敵から守り抜いて、発展させたのが孟子その人の生涯でした。
下記に、孟子のプロフィールを抜粋します。
人物「孟子(もうし)」
◆中国、戦国時代の学者・思想家。
◆紀元前372年~同289年没(明代の「孟子譜」の記述)
◆現在の山東省鄒城市である鄒(すう)に生まれる
◆父は不明、教育熱心な賢母の元で育てられる(「孟母三遷」や「孟母断機」の言い伝え)◆氏は孟(もう)、名は軻(か)、字は子輿(しよ)
◆孔子の孫にあたる子思(しし)の弟子から教えをうける
◆孔子の後継者を自任して、「王道政治」を説くために諸国を遊説した
◆自説は為政者に聞き入れられず、以降は弟子の教育に専念。◆弟子の編纂による「孟子」がまとめられる
※出典:デジタル大辞泉などから筆者まとめ
孟子が生きた時代は、群雄割拠の戦国時代で、様々な思想(諸子百家)が入り乱れていました。
当時は他の学説が有力になり、孔子の教え(儒教)の影響力は薄れていたとか。
下記は戦国時代の地図ですが、東側の中央に孔子の生まれた「魯(ろ)」という国があります。
孟子は、その近くにある「鄒(すう)」という小国で生まれました。

孟子が生まれた頃の戦国時代(生誕は魯のそば)出典:世界の歴史まっぷ
孟子が生きたのは、戦国時代(紀元前403年~同221年)の真っただ中で、文字通り各国が戦いに明け暮れた時代です。
上記の地図で四角で囲われている「秦(しん)・楚(そ)・斉(せい)・燕(えん)・趙(ちょう)・魏(ぎ)・韓(かん)」は、「戦国の七雄」と称されました。
その中でも、後に天下を統一する、西の「秦」が最も強大な国家です。
当時の外交戦略は、その秦と直接同盟(連衡策:れんごうさく)を結ぶか、又は他の六国で同盟(合従策:がっしょうさく)を結ぶかで、激しい駆け引きが行われていたことが伝えられています。
諸国が軍事力で覇権(覇道の政治)を握ろうとした時代に、孟子は「仁義」を唱え、「王道の政治」を主張。
かつての孔子がそうだったように、孟子も壮年期に諸国を歴訪しますが、時の為政者にこの主張は聞き入れられませんでした。
晩年の孟子は、これまた孔子と同じように、弟子の教育に専念します。
その後、孟子は紀元前の289年に亡くなりますが、孟子が亡くなる際の逸話は特に残っていないようですね。
この書物「孟子」の成立について歴史書の「史記」によると、孟子と弟子が編纂したとする立場をとっています。
しかし、現在では門弟の編纂説が有力です。
「孔孟の教え」から、渋沢栄一までの系譜
日本の渋沢栄一は講演録の「論語と算盤」の中でも、孔子の「論語」からの引用はもちろん、補足として「孟子」からの引用も多くしています。
今回の「孟子」で、その系譜もひと段落となりますが、時系列で整理した図も作成しましたので、参考になりましたら幸いです。

孔子から渋沢栄一までの系譜 ※画像をクリックで拡大します
南宋の朱子によって一級書に
書物「孟子」はしばらくの間、数多の思想の一つ(諸子百家)の扱いでした。
その後、書物「孟子」は「四書(論語、孟子、大学、中庸)」と、並べられるまでに評価されるに至ります。

朱子(出典:Wikipedia)
その立役者として挙げられるのが、南宋の朱子(朱熹)です。
孟子から途絶えていた儒教の道を、約1000年後に大復活させた功績も見逃せません。
宋代(960年~1279年)になると、仏教哲学の影響で、周敦頤(しゅうとんい)による、宋代の儒教(宋学)が発達しています。
宋学の宇宙の原理や人間の本性などを探求する姿勢は、程顥(ていこう)程頤(ていい)の二程子に引き継がれ、朱子に至りました。
この宋学の集大成としたものが、「朱子学」成立の背景となります。
朱子は、それまで二級の副読本扱いだった書物「孟子」を、一級カテゴリーの「四書」にまで押し上げてくれたんですよね。
そして、孟子は顔回(がんかい)と共に、「聖人」孔子に次ぐ「亜聖」として、儒教を理解するうえで欠かせない存在になりました。
孔子と孟子は合わせて論じられる事が多く、「孔孟の教え」や「論孟の教え」と言うこともあります。
書物『孟子』とは? その意味(概要や思想)など
「孟子」と聞いて連想することといえば、多くの人が「性善説」を挙げるかと思います。
実際に書物の「孟子」を読み始めると、孟子の思想は「性善説」を起点とした、ヒューマニズムに溢れていることが分かるんですよね。
・・・また、本書では、やせ我慢を見せたり、論敵に強弁していると思わせるシーンも散見されています。
この辺りも、孔子の教えを論敵から守るために見せた姿勢とも受け取れて、何とも人間臭い部分とも感じられると思います。
そのような部分も、孟子の魅力に間違いありません。
書物『孟子』の概要
孔子や「論語」ほどの知名度はありませんが、書物「孟子」について、一般的解釈も含めて箇条書きでざーっと記します。
書物「孟子(もうし)」
◆孟子の思想がまとめられ、儒教における「四書」のひとつとされる
◆没後に弟子が編纂したと考えられている
◆孟子の弟子に先生を表す「子」が用いられている箇所がある
◆唐代(618年~907年)に入り、文人の韓愈(かんゆ)や柳宗元(りゅうそうげん)から評価を受ける◆後漢(947年~950年)の趙岐(ちょうき)の注釈により、各篇を上下に分けた全十四篇となる
◆南宋(1127年~1279年)に朱子が「四書五経」を定め、「孟子」が副読本から一級書の扱いになる
◆朱子学が「科挙(役人の登用試験)」の科目になり広く普及する
◆内容は、孟子と諸侯との対話・弟子との問答・孟子のことばが書かれている
◆日本には奈良時代の伝来と考えられ、江戸幕府に朱子学が官学として採用され一般にも普及した※出典:Wikipediaや書籍資料などから筆者まとめ
聖人(孔子)に次ぐ、亜聖(孟子)と称されていますが、現代に生活している私達のほとんどは、読んだことがない方が多いはずです。
・・・とはいえ、私も40代になってから、詳細に読み始めたクチなんですよね。汗
「論語」に関してはざっと調べたので、次は「孟子」かなと意気揚々とぶつかってみた次第です。
「論語」の章句は短く端的な文だったのですが、「孟子」はほぼ文章になっているので、最初は読み難く感じました。
しかし、書物「孟子」では自説の「王道政治」や有名な「性善説」の説明だけではなく、孔子が憧れた「先王の道」も詳細に説明しています。
初学者の私は、不思議なことに書物「孟子」を読み進めているうちに、「論語」の理解も深まったんですよね。
この「先王の道」こそが、孔子や孟子の理想とした政治に他ならないので、下記に説明を加えます。
【コラム】理想とされる「先王の道 (≒王道政治)」と暴君の末路
中国には古代から天を崇拝する思想があり、天の意思を受けて政治を行う人を「天子」と呼びました。
孔子の教えから成立した儒教では、古代伝説上の帝王である、堯(ぎょう)舜(しゅん)禹(う)らを理想の聖天子としています。
なお、この帝位の継承には、①禅譲、②世襲、③放伐(易姓革命)の三つの方法があります。
①の禅譲は、帝位にあった尭が有徳者である舜に継がせ、舜は禹にその帝位を継がせています。
しかし、②の世襲では悪名高い桀(けつ)や紂(ちゅう)のような暴君も生まれてしまいます。
そのような暴君は③の放伐により、王家の姓をあらためる動きが現れるのは、自浄作用というものでしょうか。
・・・これが「易姓革命」で、訓読すると「姓を易(か)え、命を革(あらた)む」となります。
この③の放伐により、前述の暴君である、桀王を湯王(とうおう)が討ち、殷(いん)王朝が成立します。
さらに、殷王朝の末期には、暴君桀王も武王(ぶおう)がこれを討ち、周王朝を打ち建てました。
以上から、孔子の言行録である「論語」や書物「孟子」では、先王の道をモデルケースとして、尭・舜・禹・湯王・武王などが聖人として挙げられているんですよね。
これらの行った善政こそが孔子のいう「先王の道」としたもので、孟子は『王道政治』と表現しています。
日本語での「革命」は、フランス革命やロシア革命などの、「市民革命(≒ revolution)」と混同しやすいかと思いますが、少々意味合いが違ってきますね。
この③の放伐について孟子は、「仁や義を損なった」君主を臣下が討つ場合において、革命是認(!)の意見を表明しています。
武王が紂王を討ったケースについても、「君主を討った」とは聞いていないと述べ、この革命是認論は後世で議論の対象となっています。
(梁惠王章句下 / 2-8)
この為、天皇制のある日本では、逆臣の企てを防ぐためにも、書物「孟子」を積んだ船は沈没するという逸話も生まれました。
参考書籍:「孟子 ビギナーズ・クラシックス」角川ソフィア文庫
書物「孟子」(七篇 / 全十四章)のタイトル
孔子の言行録である「論語」がおおよそ現在の姿に成立したのが、約1800年前の三世紀ごろといわれています。
その以前は、孔子のことばを竹簡などにメモしていたものが、ばらばらの状態だったとか。
孟子は、孔子の孫(子思)の弟子から教えを受けたと言われていますが、活躍した年代は紀元前の三世紀ごろです。
単純に500年ほどの開きがあるのですが、書物「孟子」には「論語」に収められていることばが散見されています。
おそらく、原「論語」のような体裁は、既に孟子の時代にはあったかもしれません。
そして司馬遷の「史記」の「孟子荀卿列伝第十四」に、書物「孟子」七篇の記載が残されています。
司馬遷が亡くなる紀元前86年頃には、書物「孟子」が弟子を中心にしておおよそ成立していたことが伺えますね。
書物「孟子」の章句につけられた名称は、「論語」になぞらえて、文の冒頭を抜き出したものになります。
「孟子の章名(篇)と章句の数」
1, 梁惠王章句上 / りゅうけいおう / 7章句 ・・・諸侯との対話
2, 梁惠王章句下 / 同上 / 16章句
3, 公孫丑章句上 / こうそんちゅう / 9章句 ・・・斉に滞在時の弟子との問答など
4, 公孫丑章句下 / 同上 / 14章句
5, 滕文公章句上 / とうぶんこう / 5章句 ・・・文公との対話や思想家との問答
6, 滕文公章句下 / 同上 / 10章句7, 離婁章句上 / りろう / 28章句 ・・・短い孟子のことばが集められている
8, 離婁章句下 / 同上 / 34章句
9, 万章章句上 / ばんしょう / 9章句 ・・・古代の聖人・賢人の事蹟に関する話題
10, 万章章句下 / 同上 / 9章句
11, 告子章句上 / こくし / 20章句 ・・・告子らとの人の本性に関する論争など
12, 告子章句下 / 同上 / 16章句
13, 尽心章句上 / じんしん / 46章句 ・・・短い孟子のことばが集められている
14, 尽心章句下 / 同上 / 38章句※全十四章 / 二百六十一章句
「論語」が五百二章句に対して「孟子」は二百六十一章句となるので、半分程度と感じるかもしれませんね。
しかし、「孟子」は文章形式の章句が多く、文字数では「論語」の約13000字に対して34000字ほどの量です。笑
・・・私のおすすめは、後述する参考書から入っていくのが良いかもですね。
書物に綴られた、人物「孟子」の思想
人物「孟子」が活躍した戦国時代は、道徳が荒廃し、民が窮乏する状況でした。
孟子は、軍事力による「覇道政治」を否定し、仁義を掲げた「王道政治」によって社会の変革を志しています。
人物「孟子」が目指したのは、孔子と同じく民衆が安心して暮らせる社会です。
書物の「孟子」には、その想いが全編にわたって溢れていることが感じられます。
【決意】・・・「なぜ利を語る?」「孔子の後継者を自任」
書物「孟子」は弟子が編集したと考えられていますが、その編集方針は「論語」よりも分かりやすくなっています。
亜聖「孟子」の決意は、書物の冒頭と最後に示されています。
(ここは注目の箇所ですね。)
壮年期の孟子が遊説活動を開始して先ず訪れたのが、梁(りょう)の惠王の国でした。
戦国時代の為政者らは、諸子百家とよばれるブレーンを大事に扱っていた時代です。
そのような時代背景で、孟子の足労をねぎらう梁の惠王とのやり取りが、書物「孟子」の冒頭を飾るプロローグとなります。
『孟子梁の惠王に見(まみ)ゆ。王曰く、
叟(そう)、千里を遠しとせずして来る。亦(また)将に以て吾が国を利するあらんとするか。
孟子対(こた)えて曰く、王何ぞ必ずしも利を曰わん。亦(ただ)仁義あるのみ』 梁惠王章句上 / 1-1
◆孟子がはじめて梁の恵王にお目にかかった。王がいわれた。
「先生には千里もある道をいとわず、はるばるとお越しくださったからには、やはり(ほかの先生がたのように)わが国に利益をば与えくださるだろうとのお考えでしょうな。」
孟子はお答えしていわれた。「王様は、どうしてそう利益、利益とばかり口になさるのです。(国を治めるのに)大事なのは、ただ仁義だけです。」
出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫
約2000年後の現在から見ても、このやり取りは衝撃的なものがあります。笑
孟子の遊説活動の時系列は、書物「孟子」の並び通りに諸国を遊説したと見るのが通説になっています。
最初に、自らの立場を明確にする意図もあったのでしょう。
・・・大胆な提言ですが、孟子の意気込みを強く感じます。
この意気込みの根源は、巻末のまさに最後の章句にはっきりと書かれています。
『孔子より而来(このかた)、今に至るまで百有余歳。聖人の世を去こと此(かく)の若(ごと)く其れ未だ遠からず。
聖人の居に近きこと此の若く其れ甚(はなはだ)し。
然而(かくのごとく)にして有ることなくんば、則ち亦(また)有ることなからん』 尽心章句下 / 14-38
◆孔子から今日までわずか百余年。聖人の時代を去ることまださほど遠くはない。
また、聖人の居られた魯(ろ)の国とここ趨(すう)の地とは、かくも甚だ近い。
時も所もかくまで近いのに、もし今にしてこの聖人孔子の道を見て知って伝えるものがないとするならば、今後はついに伝え聞いて知る者がなくなってしまうであろう。
出典:『孟子(下) 小林勝人訳注』岩波文庫
・・・この最後の言葉の後に、なにかふしぎな余韻を感じませんか?
様々な解説書の補足を拾い上げてみると、その余韻の意味も色々と広がっていきます。
上記を引用した岩波文庫版では、「(この聖人の道を永く後世に伝えるものは、自分を措(お)いて外(ほか)にいったい誰があろうか)」とあります。
また、角川文庫版では、「(だから私は孔子の道を伝えることをやめない)」と補足されています。
孔子が亡くなって100年が経とうとしていた戦国時代下では、前述のように「諸子百家」と呼ばれる様々な思想が生まれてきました。
孟子の評価は没後から約1000年後にやっと高まりますが、この激しいまでの意気込みで、孔子の教えを死守したことが分かります。
この印象的な余韻を漂わせて、書物「孟子」が完結しています。
この余韻を、日本の幕末の思想家である吉田松陰が『講孟剳記 (こうもうさつき)』で言及して、「後世の人に期待する気持ちが言葉に秘められている」と述べているとか。
・・・孟子は敬愛する孔子と同じく、自分の理想の政治が成就しなかったことは、歴史の皮肉でしょうか。
この辺りは私自身も、非情に考えさせられる部分です。
【思想】・・・「性善説 / 四端説(したんせつ)」とは
たとえ「孟子」その人や思想は知らなくても、一般的には「性善説」を知っている方が多いような印象があります。
普段でも、「性善説」と「性悪説」が対になって使われているシーンは、よく散見されます。
この「性善説」は孟子が出典になりますが、その説の基礎となる部分にあたるのが「四端説(したんせつ)」です。
そして「四端説」が述べられている章句では、こちらも有名な「人に忍びざるの心有り」の説明があり、「性善説」の原点となる箇所となります。
『孟子曰く、人皆人に忍びざるの心有り。
先王人に忍びざるの心有りて、斯(すなわち)人に忍びざるの政(まつりごと)有き。
人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行わば、天下を治ること、之を掌(たなごころ)の上に運(めぐ)らすべし。』 公孫丑章句上 / 3-6
◆孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心(同情心)はあるものだ。
むかしの聖人といわれる先王はもちろんこの心があったからこそ、しぜんに温かい血の通った政治(仁政)が行われたのだ。
今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行うならば、天下を治めることは珠でもころがすように、いともたやすいことだ。
出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫
人は「忍びざるの心」があると孟子は述べますが、「誰でも」が生まれつきであるという証拠として、次の例を挙げています。
『今、人乍(にわか)に孺子(こじゅし:幼児)の将(まさ)に井(いど)に入(お)ちんとするを見れば、
皆怵惕(じゅってき)惻隠(そくいん)の心有り、
(中略)
是(こ)の四端(したん)ありて、
自ら能(あた)わずと謂(い)う者は、自ら賊(そこな)う者なり。』公孫丑章句上 / 3-6
◆たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わずハッとしてかけつけて助けようとする。
これは可哀想だ、助けてやろうと(の一念から)である。
(中略)
人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具(そな)わっているものなのだ。
それなのに、自分にはとても(仁義だの礼智だのと)そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。
出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫
「人に忍びざるの心(あわれみの心 / 同情心)」を構成するのが、「四端説(四つの芽生え)」となります。
この四つの要素こそが、どこかで聞いたことがある「仁義礼智(じんぎれいち)」です。
こちらをまとめると、下記のようになります。
◆「四端説」の要素(仁義礼智)
「仁」・・・惻隠の心(そくいん:他人を憐れみ同情する)
「義」・・・羞悪の心(しゅうお:自分の悪口を憎む)
「礼」・・・辞譲の心(じじょう:他人に譲る)
「智」・・・是非の心(ぜひ:善悪を判断する)
この心を押し広げて、さらに孔子の義を発展させたのが、王道政治というわけですね。
【政治論】・・・仁義を起点としたした「王道政治論」とは
「戦国の七雄」が群雄割拠した戦国時代は、武力による弱肉強食の世界でした。
そんな時代下でも、孟子は孔子の仁を踏まえた「王道政治」を提唱しているところに、強い信念が感じられます。
書物「孟子」には、その「王道政治」と「覇道政治」について、簡潔に述べられている箇所があります。
『孟子曰く、力を以って仁を仮(か)る者は覇(は)たり。覇は必ず大国を有(たも)つ。
徳を以て仁を行う者は王たり。
王は大を待(ま)たず、湯(とう)は七十里を以てし、文王は百里を以てせり』公孫丑章句上 / 3-3
◆孟子がいわれた。「表面だけは仁政にかこつけながら、ほんとうは武力で威圧するのが覇者である。だから、覇者となるには、必ず大国の持ち主でなければならない。
身に着けた徳により仁政を行うのが王者である。
王者となるには大国である必要はない。湯王は僅か七十里四方、文王は百里四方の小さな国からでて、遂には天下の王者となった。」
出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫
この王道政治の本質が、先ほどの「四端説」に裏打ちされた「性善説」ですね。
さらにこの「王道政治」について、斉の宣王(せいのせんのう)に説明している章句もあります。
斉の宣王は、いけにえに捧げられる牛が引かれていくのを見て不憫に思い、羊に変えさせたのです。
人民はその話を聞いて、斉の宣王が大きなものを小に変えたと揶揄しますが、孟子はこれを大きく評価しました。
『斉(せい)の宣王問いて曰く、
(中略)
徳如何(いか)なれば、則ち以て王たるべき。
曰く、民を保(やす)んじて王たらんには、之を能(よ)く禦(とど)むる莫(な)きなり。
(中略)
故に王の王たらざるは、為さざるなり、能わざるに非ざるなり。』 梁恵王章句上 / 1-7
◆斉の宣王がたずねられた。
(中略)
「どんな徳があれば、王者となれるのだろうか。」
孟子はこたえられた。「別に格別の徳とてはいりません。ただ仁政を行って人民の生活を安定すれば、王者となれます。これを、なんびととても妨害はできません。
(中略)
ですから、王様が王者となられないのは、なろうとなさらぬからであって、できないのではありません。」
出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫
「王の王たらざるは、為さざるなり」と、はっきりと述べているのが孟子らしい箇所でもありますね。笑
そして、斉の宣王が引かれていく牛に情けをかけるのだったら、人民の生活も安定するはずでしょうと、孟子は述べています。
孟子の唱える王道の政治は、やはり孔子と同じように自らの内にある最高道徳である「仁」に合わせて、「義」を提唱しています。
自分から近いものに及ぼしていく過程を、そのまま政治にあてはめればよいという考え方ですね。

孟子の理念のイメージ図(仁義)
ちなみに、孔子の言行録である「論語」には、最高道徳の「仁」と「恕(じょ)」という概念が出てきますが、書物「孟子」には見られません。
「恕」は、論語の「衛霊公第十五の二十四」にて、子貢との会話から導かれていますが、「自分の望まないことは人にしむけないこと」で思いやりのような意味で使われています。
私の想像ですが、この「恕」は比較的に新しく「論語」に加えられた箇所で、孟子の時代には伝わってなかったのかなと思っています。
【諸国への遊説活動】・・・「巧みな弁論術」は「迂遠にして事情に疎し」とも
壮年期(55歳前後?)に入った孟子は、師である孔子と同じく遊説活動を開始しました。
戦国時代の覇道政治から、王道政治による持続可能な政治を目指したものです。
この遊説活動は、後に歴史家の司馬遷(しばせん)が記した「史記」と書物「孟子」では、訪問した国の順番が違っています。
ここでは、書物「孟子」の順番がほぼ時系列と考えられているので、それに従います。
◆孟子の遊説活動の遍歴
1, 梁の恵王(りょうのけいおう)/ 「王道政治」を説きはじめる / 孟子55歳前後の頃?
2, 梁の襄王(りょうのじょうおう)/ 恵王没後(紀元前319年)に即位した、息子の人格に満足せず去る
3, 斉の宣王(せいのせんのう) / 戦国七雄の大国で大臣待遇を受けるが、意見が用いられず去る
4, 宋(そう) / 趨に戻る途中に立ち寄り、後の滕の文公と面会して、七十鎰の献金を受ける
5, 薛(せつ) / 趨に戻る途中に立ち寄り、五十鎰の献金を受ける(政情不安定でもあった)6, 一度、趨(すう)に戻る
7, 滕の文公(とうのぶんこう) / 土地改革である「井田制(せいでんせい)」を提唱するも、
8, 魯の平公(ろのへいこう) / 門弟の楽正子(がくせいし)の手引きで、孟子に会おうとするも、側近に阻まれる
9, 遊説を断念して趨に戻る / 孟子70歳前後の頃?
孔子の後を継ぐと自任した孟子は、満を持して遊説活動に出ましたが、こちらも理想の政治が成就されませんでした。
前述の歴史家司馬遷による「史記」によれば、最初に訪問した梁の恵王は、孟子の王道政治を「迂遠(うえん)にして事情に疎(うと)し」と述べたと伝え、あまり評価されなかったことが分かります。
戦国時代に様々な思想が生まれましたが、孟子の主張は「王道政治」だけではありません。
民を「経済生活の安定によって、道徳性が保てる」と、経済政策である「井田制(せいでんせい)」も主張しています。
倫理的な道徳があってこそ、はじめて人間の社会が成立すると考えたのでしょう。
『曰く、恒産(こうさん)無くして恒心(こうしん)有る者は、惟(ただ)士のみ能(よ)くすと為す。
民の若(ごと)きは則ち恒産無ければ、因りて恒心無し。
苟(いやしく)も恒心無ければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)、為さざる無し。』梁惠王章句上 / 1-7
◆孟子はいわれた。「恒産がなくとも、いつもきちんと恒心を失わずにおられるのは、ただ限られたごく少数の学問や教養のある人だけで、
一般庶民は恒産が無ければ、つれて恒心はないものです。
もしひとたび恒心がなくなると、わがまま・ひがみ・よこしま・ぜいたくなど人はしたい放題、どんな悪いことでもやってのけます。
出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫
孟子は一般庶民の経済環境を整備しようと努めたのは、このような理由からでした。
この制度を裏付けるのが、経済政策である「井田制(せいでんせい)となります。
◆孟子の経済政策「井田制(せいでんせい)」
・一里四方の土地を「井」の字型に九分割する
・九分割された中央の区画を公田とする
・周囲の八つの区画を私田として八家族に分配する
・公田は八家族共同で私田は分配された家ごとに耕作する
・公田の収穫は租税として国に収め、私田の収穫は耕作者の収入とする出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』滕文公章句上 / 5-3 より
・・・このような経済政策は孔子には見られなかったもので、孔子の提言をより現実的にしようとする意思が垣間見えます。
見ていただいて分かるように、主として農村の家族生活の安定を考慮したものです。
社会不安の原因は、農村にあるとみた孟子が提唱した施策でしたが、大国である梁や斉では活用されず、小国である滕においても活用されませんでした。
しかし、孟子をはじめ儒教が手本とした周の文王を手本として、「老人に絹を着せ、肉を十分に食べさせる」ような社会を目指していた理念が現れていると思います。
「孟子」は現代ビジネスでも役に立つのか
(Coming Soon)
孟子の評判や名言
「論語」を読み進めていくうちに気が付いたのですが、一番近くにいる弟子との問答のくだりは、素近い部分が描写されている気がします。
・・・孔子はたまに弟子をからかったりしたりしますが、書物「孟子」にそのようなシーンはありません。笑
かといって、孟子が血も涙もない非情人間かというと、私はそのような印象は残りませんでした。
孟子が主張する「王道政治」も、「仁義」を元にしているためか、根底の情のようなものは感じられたからかもしれません。
孟子のエピソードや人となり
しかし、孔子の意思を継ぐ決意をした孟子でしたが、やや感情的になったり強弁で押し切るなど、おだやかな感じはあまり見られません。笑
私の好きな人間「孟子」がそこにあります。
それでも、弟子が仕官した際には嬉しくて夜も眠れなかったとか、母親の葬儀はやり過ぎなくらい手厚く葬ったシーンも伝えられています。
孔子の教えを守るのに、本当に必死だったのではないでしょうか。
孟子の母の逸話・・・「孟母三遷」や「孟母断機」
孟子が育った家庭は当時の一般的レベルと言われていますが、細かい出自は分かっていません。
伝えられるところによれば、父は幼いころに死別した後、孟子は教育熱心な母により育てられたそうです。
有名な故事(後述する「孟母三遷」や「孟母断機」)によると、母子家庭で育てられた孟子の出自は、あまり恵まれた環境とは言えなかったようです。
◆孟母三遷(もうぼさんせん)/ 三遷の教え
孟子の母は、孟子が幼少の時に家を墓地の近く・市場の近く・学校のそばと三度移って、三度目に初めて、わが子を教育するのに適した環境を得た。
◆孟母断機(もうぼだんき)/ 断機の戒め
孟子が修行の途中で家に帰ると、母は織りかけた機(はた)の布を断ち切って、「学問を中途でやめるのはこれと同じことだ、完成させなければ何の役にも立たないのだ」と戒めた。
※共に出典は前漢の「列女伝(れつじょでん)」より
孟子の素養は、教育熱心な母に厳しくも、思いやりがありますね。
・・・私は、成人した孟子のコミュニケーション作法が、孟子の母にそっくりそのままだと思います!笑
出典の「列女伝」は紀元前18年の成立といわれているので、書物「孟子」の成立の数十年後あたりでしょうか。
「孟子」を参照に、孟母のエピソードを書く可能性は無きにしも非ずですが、ちょっとそれは考えにくそうです。
孟子の活力の源?・・・「浩然の気」
書物「孟子」を読み進めていくうちに感じることは、孟子が全編で自信満々なところです。
王に謁見しても、全然ひるまずに意見をするし、何か空気の読めなさも目立ったりします。
しかし、孟子は悪びれる様子もなく、全然気にしないんですよね。笑
そんな孟子が辿り着いた境地は、「浩然の気(こうぜんのき)」だと、感覚を頼りに言語化しているシーンがあります。
『敢えて問う、何をか浩然(こうぜん)の気と謂(い)う。
曰く、言い難し。
その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害(そこな)うことなければ、則ち天地の間に塞(み)つ。』 公孫丑章句上 / 3-2
◆公孫丑がまたいった。「ぜひ、うかがいたいのですが、その浩然の気は、いったいどういうものなのでしょう。」
孟子はこたえられた。「言葉ではなかなか説明しにくいが、
この上もなくつよく、しかも、正しいもの。立派に育てていけば、天地の間に充満するほどにもなる。」
出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』
どんな境地に立たされようと、孟子が持ち続けていた境地で、同じ章句では四十代になってこのような境地にたどり着いたことも吐露しています。
厳しくも優しい人柄・・・弟子への対応
時として孟子は、(肖像画の雰囲気からも)冷たく厳しいと取られますが、このような一面もあります。
前述した、門人の楽正子(がくせいし)が仕官した喜びを語ったシーンですね。
『魯、楽正子をして政(正卿)たらしめんと欲す。
孟子曰く、吾之(これ)を聞きて喜びて寐(い)ねられず。』告子章句下 / 12-13
◆魯の国では孟子の弟子の楽正子を宰相として政治を執らせようとした。
孟子がいわれた。「自分はこの話を聞いて、嬉しくて夜もろくろく寝られないほどだ。」
出典:『孟子(下) 小林勝人訳注』
この章句では、別の門弟の公孫丑(こうそんちゅう)が、楽正子のどこが優れているかを聞き出そうと質問をなげかけています。
・・・いくつかの問い(剛毅果断?思慮分別?博聞多識?)に対して、孟子はそれぞれ「そうではない」と答えるんですよね。
孟子が楽正子を評すると、「ほんとうに善いことが好きだから」な人物だったので、夜も寝られないほどうれしかったと語るあたりが真意でしょう。
この辺りは私も少々意外なエピソードだったので、孟子の一面を発見した感じがします。
地味ではありますが、このシンプルな孟子の答えは、私の最も好きなシーンかもしれません。
しかし、イメージ通り(?)にやはり厳しい一面も持ち合わせています。
先ほどの公孫丑が、つい弱音を吐露する章句があります。
『公孫丑曰く、道は則ち高し、美(だい)なり。
宣(ほとん)ど天に登るが若く、及ぶべからざるに似たり。
何ぞ彼(かれら)をして幾及(ききゅう)すべしと爲(おも)わしめて日々に孳孳(しし)たらしめざる。』尽心章句上 / 13-41
◆公孫丑がいった。「先生、聖人の道は高尚でもあり、偉大でもありますが、なにぶんにも高大すぎて、
まるで天にも登るようなもので、とても我々にはついていけそうもありません。
どうか一つ我々にもついて行けそうな程度にまでレベルをさげて、毎日の勉強が張り合いのあるように手加減してはいただけないものでしょうか。」
出典:『孟子(下) 小林勝人訳注』
公孫丑の悲鳴に対して、孟子は先ず「いや、そんなわけにはイカン」と、あっさりと跳ねのけてしまいます。笑
孟子は、その理由を大工の棟梁や伝説の弓の名人の羿(げい)のたとえを持ち出して、説明しました。
ただ、よく忍耐して学ぶ者だけがついてこれると孟子は述べ、「聖人の道のために変えるわけにいかない」と公孫丑の願いは聞き入れられませんでした。
・・・孟子の理想主義ぶりが厳格になっている感もありますが、孟子も覚悟のうえで孔子の道を伝えようとしているので、やむおえない感がありますね。
書物「孟子」に登場する門弟
孟子もかつての孔子と同じように弟子を抱えていましたが、書物「孟子」で出てくる主要な弟子はそう多くありません。
また、書物「孟子」の編集者も、すぐれた弟子を「四科十哲(孔門十哲)」のように評することもありませんでした。
代表的な門弟は誰かと思い立って、書物に登場する回数を私が実際に手で数えてみました。
◆「孟子の門弟」登場回数ランキング、ベスト5
1位 公孫丑(こうそんちゅう)/ 17回
2位 万章(ばんしょう) / 15回
3位 公都子(こうとし) / 7回
4位 楽正子(がくせいし)、陳子(ちんし) / 共に5回※当サイト調べ(参考図書:『孟子(上)(下) 小林勝人訳注』より)
※書物「孟子」は文章が長い章句が多いので、参考図書の段落ごとに集計した
結果はご覧の通りで、先ほど弱音を吐いていた公孫丑が登場回数トップでした!笑
トップの二人(公孫丑と万章)は、章のタイトルにもなっていましたね。
弟子の中でも、孟子と数多くの問答をして登場回数を伸ばした感があります。
また、司馬遷の史記には、書物「孟子」は弟子の万章らと七篇(現在の上下十四篇)を記したと伝えられました。
しかし、弟子にも先生を表す敬称の「子」がついていることからなどにより、孫弟子あたりが編纂したとする説が有力です。
書物「孟子」に登場する門弟は、全部合わせても14人です。
「論語」で孔子の門弟で登場する30人と比べても、小さな規模だったことが伝わります。
その他の孟子の門弟の名前だけ、下記に紹介します。
◆孟子の門弟(その他)
・孟仲子
・充虞
・高子
・徐辟(除子)
・陳代
・彭更
・咸丘蒙
・屋廬子
・桃応※当サイト調べ(参考図書:『孟子(上)(下) 小林勝人訳注』より)
一度しか登場しない門弟も多いのですが、他には孟子の元で学んで離れた人物も登場しています。
諸子百家の時代なので、色々と目移りしてしまうのは、現在でも似たような現象は散見されるので、興味深いところでありますね。
「諸子百家」のライバルとの論争
孟子の生きた時代は、孔子が亡くなった後の約100年後となります。
その後は、戦国時代に突入して、様々な思想も入り乱れる混乱の時代となりました。
そのような様々な思想を、「諸子百家(しょしひゃっか)」といいます。
◆「諸子百家(しょしひゃっか)」
先秦(秦の始皇帝より以前)時代の、諸学派、諸学者、またその著書の総称。
周王朝の権威が衰え、言論思想の発表が自由になると、多くの思想家が現れ、いろいろな学説を発表した。
なお、儒家を除いて、諸子百家という場合もある。
◆諸子百家の分類
・儒家(孔子、孟子、荀子など) / 最も古く、支配階級の政治道徳として「仁」を提唱
・墨家(墨翟など) / 儒家の礼楽を排して、兼愛(博愛主義)や非戦を説く
・道家(老子、荘子など) / 無為自然を尊び、あるがままの自然の社会を理想とする
・法家(韓非子、李斯など) / 帝王の絶対権力を確立して、厳格な法治国家統制を主張
・陰陽家(鄒衍)/ 陰陽五行説により天地間の万物で、吉凶禍福を占い定める・名家(公孫龍など) / 名(言葉)と実(実体)との関係を論理学的に考究
・兵家(孫子など) / 兵法や戦略、さらには国家経営の奥義などを説く
・縦横家(蘇秦、張儀など) / 戦国の諸侯の間を、弁舌と策謀による外交戦略を遊説
・農家(許行)/ 誰もが農業を重視すべきとの農政論を主張
・雑家(呂不韋、劉安など) / 各派の学説を取捨選択して総合を図った学派
・小説家(師曠など) / 民間の珍しい出来事や説話などを、語り伝えた学派※出典「社会人のための漢詩漢文小百家」大修館書店よりまとめ
また、互いに討論する思想活動のありさまを「百家争鳴(ひゃっかそうめい)」と呼びます。
戦国時代、各国はその身分によらず、様々な知識や技術を持った人材を求める需要が発生しました。
なかでも、孟子が長く滞在した斉(せい)では、住宅を用意してそこに学者や思想家を集めていました。
ここでは高い俸給を受けながら、自由に学問や議論をしていればよかったそうです。
都城の西にある稷門のそばに、その住宅があったことから、この学者や思想家を「稷下の学士(しょっかのがくし)」としています。
書物「孟子」では、これらの諸子百家の攻撃や論争などから、孔子の教えを守るために、批判や論争などが多くみられます。
楊朱(ようしゅ)と墨翟(墨子:ぼくてき)への批判
孔子と孟子の時代は約100年ほど離れていますが、その間に勢力をもちはじめたのが、楊朱(ようしゅ)と墨翟(ぼくてき)の学派です。
楊朱は極端な利己主義・個人主義として、「為我(いが)説」を唱えて、人間の本性を保とうと、儒教に対抗して主張しました。
墨翟は、兼愛説や非戦・節倹などの説を主張して、墨家の始祖として墨子とも称されています。
孟子は、孔子が亡くなった後に広まったこれらの説を、異端邪説として一蹴します。
『聖王作(おこ)らず、諸侯放恣(ほうし)にして、処士横議(しょしおうぎ)し、
楊朱・墨翟の言、天下に盈(み)つ。
天下の言、楊に帰せざれば則ち墨に帰す。
楊氏は我が為にす、是れ君を無みするなり。
墨氏は兼愛(博愛)す、是れ父を無みするなり。
父を無みし君を無みするは、是れ禽獣なり。』滕文公章句下 / 6-9
◆(孔子の死後は)聖王はあらわれず、王室も衰えはてて、諸侯たちはわがまま放題なことをし、
在野の学者は勝手きままに無責任な言論を唱えて世間をまどわし、中でも楊朱(ようしゅ)や墨翟(ぼくてき)の説が広く天下にみちあふれて、
天下の言論は楊朱の説に賛成しなければ、必ず墨翟の説に賛成する有様。
いったい、楊氏の説は、自分のためだけしか考えない自分本位の個人主義で、つまりは君主を全く無視するものである。
墨氏の説は、自分の親も他人の親も全く平等に兼ね愛する無差別の博愛主義者だから、父はあってもないのと同然、つまりは父を全く無視するというもの。
このように、自分の父を無視し自分の主君を無視するのは、これこそ、とうてい人間とはいえない禽獣のふるまいである。
出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』
孟子はこれらの説を、両極端なもの(禽獣のふるまい)として、孔子の教え(を受け継ぐものたち)はその中間の立場にあると主張します。
『孟子曰く、楊子は我が為にす。一毛を抜きて天下を利するも、為さざるなり。
墨子は兼ね愛す。頂(あたま)を摩(すりへら)して踵(くびす)にまで放(いた)るとも、天下を利することは之れを為す。
子莫は中を執る。』尽心章句上 / 13-26
◆孟子がいわれた。「楊朱(ようしゅ)は、万時自分本位にしか考えない。だから、たといわずか髪の毛一本抜くぐらいのことで大いに天下の為になるとしても、決してそれをしない。
ところが、墨翟(ぼくてき)は、たとい頭の天辺から足の踵まですりへらしても、天下の為とあればそれをするのである」。
魯の賢人子莫(しばく)はこの中ほどを執る中道主義者である。」
出典:『孟子(下) 小林勝人訳注』
この中間の立場こそが、正しい人の道という孟子の主張ですね。
告子(こくし)との論争
書物『孟子』のなかで、孟子と直接議論を繰り広げるのが告子という人です。
この告子についてははっきりとしたことが解っていませんが、前述の墨子(墨翟)の元で教義を学んだ後に、批判側に回ったと伝えられます。
雄弁な孟子といえども、同時代を生きたライバルである、この告子はちょっと相手が悪かったように感じます。
・・・そもそも両者の話が、あまりかみ合いません。笑
この時代に論じられていたのが、人間の本性は善なのか、悪なのか。
または、性と仁、性と義などコインの裏表のような関係が論じられています。
◆孟子vs告子の論争
Round1:人間の本性とは?(告子章句上 / 11-1)
→告子「人間の本性は水辺の杞柳(こぶやなぎ)の器のようなもので、どちらにも曲げることができる性質だ」
→孟子「杞柳の曲げやすい特性を器に生かすのか、それとも無理やり力を加えて器をつくるのか」Round2:人間の本性は善か不善か(告子章句上 /11-2)
→告子「人間の本性は渦を巻いている水のようなもので、東の堤防が無くなると東に流れる。西もまた同じだ」
→孟子「確かに東西の区別はないが、上下の区別はあるだろう。水は自然に低い方(善い方向)に流れていく」
Round3:人間の本性は先天的なのか(告子章句上 /11-3)
→告子「生まれたままのものが人間の本性で、善や不善などあるはずがない」
→孟子「すべて白いものを白いというのと同じで、牛や犬の性が人の性と同じにもなるのだが」Round4:仁義は内なるものか、外なのか(告子章句上 /11-4)
→告子「食欲と性欲は人間の本性だ。仁は人の内に在り、義は人の外にあるものだ(仁内義外説)」
→孟子「老いた馬を見る気持ちと、老人を見て敬意を抱く気持ちに果たして違いはないのだろうか」
これらの議論は、全て先行は告子からはじまるものでしたが、孟子の反論が告子の主張と離れたりします。
孟子の反論をもって章句が終わってしまうので、見ている側の私たちは少しモヤモヤした気持ちが残るのは気のせいでしょうか。笑
淳于髠(じゅんうこん)との論争
斉を去ろうとした孟子に、同じ「稷下の学士(しょっかのがくし)」であった淳于髠(じゅんうこん)に辛辣な言葉を投げかけられます。
この淳于髠は奴隷あがりの弁士で、司馬遷が記した「史記」の「滑稽列伝」にとりあげられるほどの奇才で、弁の立つ孟子が結構な勢いでやり込められてしまいます。
『淳于髠曰く、名実を先にする者は人の為にするなり。
名実を後にする者は自ら為にするなり。
夫子、三卿(さんけい)の中に在りて、名実未だ上下に加わらずして之を去る。
仁者は固(もと)より此(かく)の如(ごと)きか。
(中略)
諸(これ)を内に有すれば、必ず諸を外に形(あら)わす。
其の事を為して其の功なき者は、髠未だ嘗(かつ)て之を覩(み)ざるなり。
是(こ)の故に賢者なきなり。有らば則ち髠必ず之を識(し)らん』告子章句上 / 12-6
◆淳于髠がいった。「名誉と功績を第一に考える人は、人民を救う志のある者であり、
名誉と功績を二の次にする人は、ただひたすら自分だけの保身を考えているものです。
先生はかりにも斉の国の三卿(※大臣)の一人でありながら、上は国君を正すこともせず、下は人民を救うこともできず、いわば名誉も功績もまだ上にも下にもゆき渡っていないのに、この国をやめて去られることとなりましたが、
仁者とは元来そういうものなのでしょうか」
(中略)
「すべて内にそれだけのものがあれば、必ず外に影響があらわれるものです。
何か仕事をして何の効果もあらわれないなどということは、髠はまだ見たことがございません。
してみると、斉には今、賢者はいないのでしょう。もしいれば、きっと髠にも分かるはずです」
出典:『孟子(下) 小林勝人訳注』
この辛辣な淳于髠の投げかけに対して、孔子を引き合いにして自分の志と離れたため、職を去ろうとしたと述べます。
そして、「これには正しい理由がある。すべて深い思慮があってのことで、普通の人間にはとうてい分からない」として、この章句は終わっています。
孟子は、提言が採用されずに斉を去りますが、何となくいつもの気概が失われている気がします。
人間「孟子」の部分が垣間見えたかなと思えた、印象的な章句でした。
孟子にまつわる逸話と爆弾発言
孟子について色々と調べていると、結構びっくりするような「爆弾発言」で、後世の人には随分と嫌われている一面もあります。笑
毛嫌いされる反面、南宋の朱子をはじめとして書物「孟子」の価値を認める学派も現れているので、色々と議論の絶えない思想といえるでしょう。
中国の孟子嫌いの逸話
北宋時代(960年~1126年)のある学者は、朝廷の出仕試験をうけた際に、出典のわからない問題があったと伝えられています。
その学者は大の孟子ぎらいだったので、「大切な書物はすべて学習したから、この問題はきっと孟子に違いない」と考えました。
彼は試験を放棄して、さっさと帰ってしまったが、その問題はやはり孟子のものであったとか。笑
・・・もちろん試験には落第して、その学者は貧しく過ごしたそうです。
また、明の太祖(みんのたいそ:1368年~1398年在位)は、孟子の思想が不敬と感じました。
「今の世に生きていたなら、刑罰ものだ!」と、孟子の祭りをやめさせてしまったとか。
そして、「孟子節文」という不都合な箇所を削除した書物を作らせたと伝えられています。
日本の孟子嫌いの逸話(革命思想)
日本でも、書物「孟子」を積んでくる舟は沈没するという逸話が残されています。
(この逸話は上田秋成の「雨月物語」が出典です)
中国の書物で伝来しないものは無いのに、孟子だけは日本にきていない、とさえ言われています。
その理由は、前述の「革命是認」の思想が伝来すれば、天皇の位を脅かす者が現れるだろうと、八百万の神が船を転覆させるからと伝えています。
これは天皇制が続き王朝の交代がおこると困る、日本ならではの歴史的な事情からですね。
(この逸話は中国の明清代に書かれた、「五雑俎(ごさっそ)」や「古夫于亭雑録(こうふうていざつろく)にもみられます。)
さらに、1800年に桂川中良が書いた「桂林漫録(けいりんまんろく)」には、「孟子はいみじき書なれども、日本の神の御意に合わず」ともいわれています。
・・・孟子の革命思想が、当時の政治体制を鑑みても、非難されてしまうのはしょうがないでしょうね。
過激な政治思想や爆弾発言の数々
さて、そのような爆弾発言とはなんだったのでしょうか??
門人の万章との門問で、有名な尭から舜への譲位の伝説をとりあげたものです。
孟子の考えでは、「天子の地位を保証する天意は、民衆の意思によって代表される(万章章句上 / 9-4)」と述べています。
その進歩的な思想は、現在から見ても爆弾発言かと思います。
『孟子曰く、
民を貴(たっと)しとなし、社稷(しゃしょく)之に次ぎ、
君を軽ろしとなす。』尽心章句下 / 14-14
◆孟子がいわれた。
「国家においては人民が何よりも貴重であり、社稷の神(※土地と穀物の神)によって象徴される国士がそのつぎで、
君主がいちばん軽いものだ。」
出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』
このような発言で、君主を軽んじて屈辱でもありますね。
さらにこのような思想を大胆にも、斉の宣王(せいのせんのう)の前で堂々と述べた個所は、後世で大きな物議を起こした、超特大の爆弾発言となります。
斉の宣王が大臣の職責について質問をしたところ、孟子は王室出身の大臣(貴戚の卿)と外様の大臣(異性の卿)では、その職責が違うと述べています。
前者(貴戚の卿)についての説明で、その爆弾発言が飛び出しています。
『王曰く、貴戚(きせき)の卿(けい)を請問(と)う。
曰く、君大過(たいか)あれば則ち諫め、之を反覆(はんぷく)して聞かざれば則ち位を易(か)う。
王勃然(ぼつぜん)として色(かおいろ)を変ず。』万章章句下 / 10-9
◆王がいわれた。「では、まず同性の卿(※政治をつかさどる大臣))について聞きたい。」
孟子はこたえられた。「王さまと同性の卿は君主に重大な過失があればお諫め申し、いくど繰り返してお諫めしても聞き入れられなければ、やむなくその君主を廃して別に一族の中から選んで君主の地位につけます。」
これを聞くや、王は驚き怒り、サッと顔色をば変えられた。
出典:『孟子(下) 小林勝人訳注』
戦国時代で下剋上がまかり通る時代背景とはいえ、斉の宣王の前で堂々と言いのける孟子もたいしたものですよね。笑
孟子は続けて「王さまがせっかく尋ねられたので、私としても正しくお答えしないわけには参らなかったのです。」と心情を述べています。
・・・因みに、外様の大臣(異性の卿)に過失があった場合には、諫めて聞き入れられなければその国を立ち去るのみと、さらっと語っています。
後世の王室出身の大臣(貴戚の卿)だからといって、王位を変えて良いようなロジックかと言われて納得できる人は少なく、後世で物議となった箇所となります。
【コラム】「漢意排斥」の本居宣長と吉田松陰
江戸時代の中期から後期にかけて、古事記や万葉集などの古典に基づいた、日本の思想を明らかにする学派が起こりました。
これを「国学(こくがく)」といい、儒教や仏教の伝来前の日本の精神文化を探求。

本居宣長(出典:Wikipedia)
国学の学者である、本居宣長(1730年~1801年)は、漢意(からごころ)の排斥を主張していましたが、孟子についても批判をしています。
特に、本居宣長の怒りを買った章句が、前述の「君を軽ろしとなす。(尽心章句下 / 14-14)」を詳細に述べた部分でした。
『孟子斉の宣王に告げて曰く、
君の臣を視ること手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。
(中略)
君の臣を視ること土芥(つちあくた)の如くなれば、則ち臣の君を視ること国人の如し』離婁章句下 / 8-3
◆孟子が斉の宣王に向かっていわれた。
「人君が臣下を自分の手足のように大切に扱えば、臣下はその恩義に感じて君主を自分の腹や心のように大切に思います。
(中略)
また君主が臣下を泥や芥のように見なして踏みつけにすると、臣下もまた君主を仇(あだ)や敵(かたき)のように恨み憎むものです」
出典:『孟子(下) 小林勝人訳注』岩波文庫
この章句に対して本居宣長は、「孟軻(もうか:孟子のこと)が大悪をさとるべし」「甚だしきいい過ぎしの悪言なり」と批判しています。
国学者から見たら看過できない危険思想と捉えたことが伺われます。
江戸幕府下においては、前述の国学の動きもありましたが、官学になった朱子学(儒教)の影響も強いものでした。

吉田松陰(出典:Wikipedia)
江戸時代末期に活躍した吉田松陰(1830年~1859年)は、明治維新の精神的指導者でしたが、彼は孟子の影響を強く受けていたといわれています。
吉田松陰は、1854年にペリーが日米和親条約を締結するため再来日した際に、なんと旗艦に忍び込んで密航を企てました。
しかし、あえなく見つかり渡航も拒否されると、自首した後に江戸から、野山獄(現在の山口県)に移送され投獄されています。
その際に、同じく投獄されていた囚人たちに、書物「孟子」を講義しています。
それがまとめられたのが、「講孟剳記(こうもさつき」または「講孟余話(こうもうよわ)」となります。
(因みに、この吉田松陰の講義は、牢屋の役人も耳をそばだてていたといわれています。)
このときに、吉田松陰と連座して投獄されていた佐久間象山は、獄中で以下の章句を毎日読み上げていたと言われています。
『故に天の将(まさ)に大任を͡是(こ)の人に降さんとするや、
必ず先ず其の心志(しんし)を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚(たいふ)を餓(が)せしめ、
其の身行(ふるまい)を空乏せしめ、其の為さんとする所を拂乱(ふつらん)せしむ
心を動かし性を忍ばせ、其の能(よ)くせざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり。』告子章句下 / 12-15
◆天が重大な任務をある人に与えようとするときには、
必ずまずその人の精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、
その行動を失敗ばかりさせて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものだ。
これは天がその人の心を発憤させ、性格を辛抱強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするためである。
出典:『孟子(下) 小林勝人訳注』岩波文庫
この章句は冒頭で、六人の聖人が若いころに困難な時代を経て、大成したことを述べています。
「敵国外患(がいかん)無き者は、国恒(つね)に亡ぶ」「「憂患(ゆうかん)に生き、安楽に死す」と名言も多い章句ですね。
書物「孟子」が出典の熟語
書物「孟子」は秀逸な表現も多く、「論語」と同じように後世では、熟語や成句になって親しまれています。
紹介しきれなかった「孟子」のことばを、ここに拾い集めてみました。
熟語になった「孟子」のことば
私たちが日常で何気なく使用している熟語には、「孟子」由来のことばが意外に多くあります。
知ってみると「へ~」と思いますが、元々の意味と離れている言葉もあるのも、興味深いところですね。
また、例によって末尾に索引をつけてあるので、興味のあることばがあったら、本文での使われ方の目安としてくださいませ。
一、「五十歩百歩(ごじゅっぽひゃっぽ)」
◆戦争の際に五十歩逃げた者が百歩逃げた者を笑ったが、逃げた事には変わらないという例え。
梁(りょう)の惠王が、自国の人民が増えないことを孟子に相談した際に、孟子が返答した問答による。
(梁惠王章句上 / 1-3)
二、「助長(じょちょう)」
◆苗の成長を早めようと、宋の人が苗を引っ張ってしまって枯らせてしまった故事から。
門弟の公孫丑(こうそんちゅう)から、「浩然の気」の意味を説明しようと孟子が持ち出した例え。
(公孫丑章句上 / 3-2)
三、「余裕綽綽(よゆうしゃくしゃく)」
◆孟子が斉(せい)に滞在中に、稷下の学士として援助を受けながら、何もしていないではないかと批判を受けて答えたもの。
孟子は、臣下としての官職でもないし、諫言の責任もないので、自分の進退は自由であると考えた。
(公孫丑章句下 / 4-5)
四、「飽食暖衣(ほうしょくだんい)」
◆神話時代の君主である舜(しゅん)の善政で、民衆は十分に恵まれた生活を送ったことを表現したもの。
孟子は舜の例を用いた後に、生活が恵まれても教育が無ければ、禽獣(けもの)に近いと釘を刺している。
(滕文公章句上 / 5-4)
五、「自暴自棄(じぼうじき)」
◆礼儀なんかと批判することを「自爆」といって、自分には仁義などできませんよと居直ることを「自棄」というとする。
孟子はこのような者とは、仕事もできないし、語り合うこともできないと言う。
(離婁章句上 / 7-10)
六、「安宅正路(あんたくせいろ)」
◆上記と同じ章句からで、孟子が提唱する「仁」は安心して住める家のようなもので、「義」は人の通る道としたもの。
(離婁章句上 / 7-10)
七、「私淑(ししゅく)」
◆孟子の生まれた時代に、孔子は既にこの世を去っていたため直接の弟子にはなれなかった。
しかし、幸いにもその教えを、「私(ひそ)かに人よりうけて、自分の身を修めて淑(よ:善)くすることができた」と述べたもの。
現在では、直接教えを受けていなくても、過去の古典や著作などから身を修めるなどの意味で、広く使われている。
(離婁章句下 / 8-23)
八、「読書尚友(どくしょしょうゆう)」
◆上記と近接したことば。友は類をもって交際するもので、それぞれの器量に応じて友人付き合いになるとしたもの。
天下の優れた人物でも満足できなければ、古の聖人の書を通して友として、活動した時代も研究せよと述べた。
(万章章句下 / 10-8)
九、「一暴十寒(いちばくじっかん)」
◆植物の生育は、一日だけ日にあてて暴(温:あたた)めても、あとの十日間を寒(冷:ひや)したならば、とても芽を出すことができない。
人間もわずかに努力しても、あとは怠けていたら何にもならないという例え。
(告子章句上 / 11-9)
十、「良知良能(りょうちりょうのう)」
◆人間が生まれながらに持っている、知恵や能力。
孟子は例えとして、二三歳の幼児から成長していく過程で、親や兄を自然に親しみ愛すると説明する。この心を「仁」としている。
(尽心章句上 / 13-15)
十一、「君子三楽(くんしさんらく)」 / 「育英(いくえい)」
◆孟子は「君子には三つの楽しみ」があるとして、次の三つを挙げた。
① 父母が健在で、兄弟姉妹が無事であること
② 天に恥じることなく、何人にも後ろめたくないこと
③ 天下の秀才を門人として教育し、立派に育てること(育英)なお、この三つに言及する前後に、「しかし天下の王者になることは、その中に入っていない」と釘をさすように述べるところが、何とも孟子らしい。
(尽心章句上 / 13-20)
成句になった「孟子」のことば
孟子のことばの数々は、ますらお的な意味合いの「大丈夫」を体現しています。
その力強いことばは、いつの間にか私たちの日常で使われていたりすることが散見されます。
一、「君子は庖厨(ほうちゅう)を遠ざく」
◆現在では「男子たるもの、女性が立つべき台所に立つな」という文脈で使われているが、本来の出典からは意味が変容している。
書物「孟子」では、調理のために生きものが殺されるので、調理場の近くに居を構えないことを指す。
これは、生きている鳥や獣の鳴き声を聞くのは、忍びない気持ちになることから。
(梁惠王章句上 / 1-7)
二、「恒産なくして恒心なし」
◆意としては、「一定の資産(恒産)がないものは、落ち着いた正しい心(恒心)を持てない」としたもの。
反対に、「恒産がなくしても、恒心あり」ができるのは、ごく限られた少数の学問や教養のある人のみだと、孟子は語っている。
(梁惠王章句上 / 1-7など)
三、「木に縁(よ)りて魚を求む」
◆斉(せい)の宣王が軍事力による政治で、領地を広めるなどの野望を持っていたが、民の心が離れる政治ではその野望は成就しないと孟子が指摘したことによる。
見当違いの方法では、実現が望めないことをいう。
ここで孟子はもちろん、覇道ではなく王道による政治を推奨している。
(梁惠王章句上 / 1-7)
四、「匹夫(ひっぷ)の勇」
◆血気にはやった、義理にもよらない小さな勇気のこと。独りよがりな蛮勇。
横山光輝の三国志などでも、頻出することば。
(梁惠王章句下 / 2-3)
五、「顧みて他(た)を言う」
◆斉(せい)の宣王に面した際に、一般的な質問から言質を取って、徐々に宣王の政治姿勢にまで広げて、孟子の意が明らかになった際に宣王がとった態度から。
孟子の最後の質問は、「一国の君主として、国内が治まらなかったら、誰に責任を取らせましょうか?」だった。
そこで、宣王は聞こえないフリをして、傍の者と別の話をしてごまかしてしまった。
(梁惠王章句下 / 2-6)
六、「曰く言い難し」
◆門弟の公孫丑(こうそんちゅう)が、孟子に『浩然の気』について尋ねて、答える直前で出たことば。
『浩然の気』は、言葉ではなかなか説明しにくいものだった。
孟子が感覚的な概念を、何とか言語化しようとする様子が伺える。
(公孫丑章句上 / 3-2)
七、「千万人と雖(いえど)も、吾往かん」
◆本当の勇気について語った孔子のことばとして、直弟子の曾子(そうし:孟子の直系)が聞いたことが伝えられた。
もし、自分が正しい道にいると確信できるならば、たとえ千万人が相手であろうと恐れることはないとしたもの。
反対に、自分が正しくないと思うときには、相手がどんな粗末な服を着ていても、怯んでしまうものだとしている。
(公孫丑章句上 / 3-2)
八、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」
◆戦争をする際には、三つの条件(①天の時・②地の利・③人の和)があるとしたもの。
天のあたえるチャンスは、土地の有利な条件に及ばないし、その土地の有利な条件も、民心の和(支持)にはおよばないと孟子は述べた。
不等号で序列をつけるならば、「③人の和>>②地の利>>①天の時」と表現できる。
(公孫丑章句下 / 4-1)
九、「敵国外患(がいかん)無き者は、国恒(つね)に亡ぶ」
◆人間は苦しみ抜いて、はじめて発奮するとした例え。
このことばの後には、「安楽にふければ必ず死を招く」と孟子らしいことばが続くところも見逃せない。
(告子章句下 / 12-15)
十、「憂患(ゆうかん)に生き、安楽に死す」
◆前述のことばから続く名言で、個人にせよ国家にせよ憂いの中にあってこそと孟子は語る。
(告子章句下 / 12-15)
十一、「尽(ことごと)く書を信ずれば、則ち書無きに如かず」
◆この文中の「書」は、儒教において尊ばれている「書経」を指している。
この経典について、一から十まで鵜呑みにして信用するなら、むしろ無いほうが良いとした大胆な発言。
(尽心章句下 / 14-3)
十二、「往く者は追わず、来る者は拒まず」
◆孟子は弟子を取る場合の流儀で、聖人の道を学びたいとした者は、誰でもそのまま受け入れていたという。
そのため、滕(とう)の文公に招かれたときに、離宮に置かれていた靴が盗まれた際に、お供の門弟に疑いがかけられた。
(尽心章句下 / 14-30)
十三、「似て非なるもの」
◆孔子が忌み嫌ったのが「善人の顔をした田舎者(郷原:きょうげん)」で、世間に媚びへつらう者だった。
このような者が真の徳のある人に紛れ込むのを、大変に警戒していたことによる。
(尽心章句下 / 14-37)
「孟子」の名言の数々
書物「孟子」は、孔子の教えを継承して残した功績もさることながら、その巧みな文体も評価されています。
孔子のおだやかな口調の「論語」も魅力的でしたが、孟子の覚悟の定まった口調もどこか格調の高さが伺えます。
そんな名言の数々もピックアップしました。
一、「父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼除有り、朋友信有らしむ」
◆後世で「五倫道」と呼ばれたもので、孟子の直系の師にあたる子思が記した「中庸」では、ほぼ同じ内容の「五達道」が見られる。
古くから重視されてきた徳目ということだろう。
(滕文公章句上 / 5-4)
二、「富貴も淫(みだ)す能(あた)わず、貧賤(ひんせん)も移うる能はず、威武も屈(くじ)く能はず。 此れをこれ大丈夫と謂う」
◆孟子の主張する「大丈夫」はりっぱな男子を意味していて、上記は孟子流の「男の中の男」といったところか。
いかなる富貴や貧賤も心は動かず、いかなる威光や武力でも志を曲げないと定義した。
(滕文公章句下 / 6-2)
三、「至誠(しせい)にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」
◆明治維新の立役者で知られる、吉田松陰が好んだことば。
自分自身に、うそいつわりがあって誠意がこもっていないときには、自分の両親や近しい友人にも信用されない。
ましてや、君主にだって信用されないと孟子は述べた。
(離婁章句上 / 7-12)
四、「その言を聴きて、その眸子(ぼうし)を観れば、人焉んぞ廋(かく)さんや」
◆孟子流の、人物の目利き術である。
ことばの意としては、眸子(瞳)は正直なもので、相手のことばを聞きながら、その瞳を観察すれば、心の中までを隠しきれるものではないとした。
(離婁章句上 / 7-15)
五、「仁は人の心なり、義は人の路なり」
◆孟子は、墨翟(ぼくてき)のように、誰にでも与えるような信愛は不自然だと批判した。
自然に備わる人情の「仁」をどのように用いるかは、近親者と疎遠者で違う(義は人の路)のは当然だとする。
(告子章句上 / 11-11)
六、「春秋(しゅんじゅう)に義戦なし」
◆歴史書である「春秋」は、魯の国の史官が残した記録を、孔子がさらに手を加えて編纂したもの。
周の支配力が弱まり、諸侯が武力をもちいて覇を争ったことから、孟子は正義にかなった戦争は無かったとした。
(尽心章句下 / 14-2)
「孟子」関連のおススメ本
「孟子」の解説本は、メジャーな「論語」に比べて多くはありませんが、東洋思想の古典だけあって、学習するには十分な資料が買い求められます。
①「孟子(上・下) 小林勝人訳注」岩波文庫 / 小林勝人
②「孟子」岩波新書 / 金谷治
③「孟子 ビギナーズ・クラシックス」角川ソフィア文庫 / 佐野 大介
④「孟子のことば」斯文会 / 加藤道理
※全てAmazonアソシエイトリンクとなります
「論語」を調べている際の「勘どころ」があるので、「孟子」の資料を揃える際にもあたりが付けやすかった次第です。
①は、岩波文庫の定番で、やはり最もベーシックな資料となります。
解説本は、理解を促すために抜粋や編集がされますが、全文記載の本書は基本として持っておきたいものです。
・・・ただし、この本は字が小さく印刷もかすれているので、本書から入る事はおススメできません。笑
岩波文庫版の「論語」を読まれた方は、同じ訳注者の金谷治先生が記した、②の解説書が入りやすいかと思います。
こちらは、注釈の一つ一つが丁寧なので、「論語」と結びつけやすい利点があります。
②と併読したのが、③と④となりますが、角川ソフィア文庫の「孟子」解説は、かなり分かりやすいと思います。
副副読本とした位置づけの④は、湯島聖堂で販売されていたものを購入しました。
孟子はあのような性格なので(笑)、どの本も孔子や「論語」の解説書よりも、熱量が高めと感じられるはずです。
・・・もっと色々な解説本の切り口で、バリエーションが増えてほしいと個人的に望んでいる次第です。
隣雲の硯(りんものすずり/この記事のまとめ)
今回も文章量が多くなってしまいました。汗
ここまでたどり着いていただきまして、ありがとございます!
昨今のビジネスパーソンの文脈では、将来的にAI(人工知能)に奪われるので、IT(情報技術)力をもっと高めなくてはいけない!という風潮がありますね。
若い方も、漢文や古典を学習するんだったら、プログラミング言語を学習したほうが良いと考えると思います。
とはいえ、人間同士のコミュニケーションは蔑ろにはできないと思いますし、何ごともバランスが肝要ですよね。
楊朱や墨翟への批判でもありましたが、バランスを崩すと何かと不自然な感じがします。
孟子が孔子の近くに生まれて運命を感じなかったら、その孔子の教えは現在では変容している可能性が高いでしょう。
強弁も多く、どこか悲壮的にまで自らを追い詰めていた印象もある孟子ですが、ちゃんと向き合いたいものですね。
この記事で、日本の商道徳の系譜として、渋沢栄一から儒教(孔子から孟子)までをまとめました。
私の個人的な記録も兼ねているので、読みやすくなっていなくて申し訳ありません。
今後のコンテンツでは、2000字程度を目安にした、スマホで流し読みして理解を促せるようなコンテンツに着手していきます。
もしよろしければ、今後の展開にご期待くださいませ。
よろしくお願いします。
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