論語とは?孔子の名言・言行録 / 人生の学問はビジネスにも啓発され経営者の道徳にも

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孔子の論語とは?
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こんにちは、隣雲(りんも)です。

前回、渋沢栄一の「論語と算盤」について思う存分まとめましたが、「論語と算盤」で渋沢がたびたび引用する「論語」についてもまとめます。

こちらも思う存分にいきますよ!

 

・・・さて、「論語」といえば、「『子(し)曰く、』の冒頭から延々と堅苦しい説教が並ぶ!」などと、誤解の多い部分が多々あります。汗

実際に「論語」を開いてみると、そんな堅苦しくないんですよね。(文体が漢文調なのも一因でしょうか)

 

人類のベストセラーとして「西の聖書、東の論語」と並べて評する人もいるほど、「論語」は東南アジア圏を中心に日本でも長らく読み継がれてきました。

そして、日本の文化形成に、深く、深くかかわっています

 

「論語」は理想の政治の復活に燃えた孔子と、個性豊かな弟子たちの交流や葛藤、時には大事件(孔子危機一髪!)などと意外とドラマチックな面もあったりします。

単なる、お説教に終始している訳では無いんですよね。

 

私も気が付いたらグイグイと引き込まれた「論語」の世界ですが、この魅力は2010年代も後半に入った現在でも色あせることは無いでしょう。

 

それでは、「論語」の世界へご案内いたします!

 

目次(お好きな所からどうぞ)

孔子とは?どんな人?

孔子とは?

「論語」も「孔子」も国語の授業で聞いたことがあるけど、さてさてどんな内容だっけ?とお忘れの方も多いと思います。

実は、私も授業の内容はほとんど覚えていません。

 

私自身がこの原因で思い当たるのは、孔子に限らず東洋思想でよく散見される「(ナントカ)子」という人物名が多すぎて、何が何だか分からなくなってしまうのではないでしょうか。

国語の授業で「孔子、孟子、荀子、老子、荘子、孫氏、韓非子・・・」ときたら、人物名を目で識別するのが精一杯で、後は文法のレ点や返り点の使い方に終始して、文章やその主旨にまでは解釈が及ばなかったのが正直なところです。

 

※名前に付けられる「子」は先生という意味の尊称です。この記事で取り上げる「論語」内の先生は基本的に「孔先生」のみとなります。

他に「子」が付いている人物も登場しますが、孔子の門弟でさらにその弟子まで登場するので、孫弟子が兄弟子に向けた尊称です。)

 

名前や名称は登場人物が増えてくると、段々と煩雑になって混乱してくるので、なるべく整理してお伝えしましょう。

とりあえずは、「論語」の中での先生は「孔子」ただ一人と覚えてください。

 

孔子のプロフィール / 略歴(身長なども)

孔子は現在から約2500年前の中国で活躍した聖人です。

古代の歴史を紐解くとたまに実在の人物か怪しい人もいますが、孔子は数々の資料から実在が確認されている人物となります。

 

孔子は歴史上の偉人なので、これまでに多くの肖像画が書かれています。

・・・その中から、比較的に新しい14世紀に書かれた「至聖先賢半身像」より、バストアップで肖像を拝借いたします。

孔子

孔子(出典:国立故宮博物院

中国の著名な歴史家である司馬遷が記した「史記」によると、孔子はなんと背丈9尺6寸(現在の2m20cmくらい)の長身で、「長人」と呼ばれていたと伝えられています。

本当にその身長であったかは歴史の謎ですが、とにかく当時としては大きな体躯を誇ったのでしょう。

孔子の容貌は、眼はくぼみ額は広く出っ張り少し曲がった背中で「大聖人」の雰囲気だったようですね。

(因みに前歯を二本出して描くのは聖人画の特徴とされています)

 

・・・伝えられる容貌だけでも何か並々ならぬ孔子その人ですが、略歴も見てみましょう。

「孔子(こうし、くじ)」

◆中国、春秋時代の学者・思想家。
◆紀元前551年~479年没(司馬遷『史記』の記述)
◆現在の山東省曲阜である魯に生まれる
◆父は農民、母は原儒(土俗的な宗教の祈祷師や巫女)と推測されている。

◆氏は孔(こう)、名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)
◆早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えたが、のちに官を辞して諸国を遍歴し、十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。
◆晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心。後世、儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。
◆弟子の編纂(へんさん)になる言行録「論語」がある。

※出典:デジタル大辞泉などから筆者まとめ

 

下記は孔子が生まれた時代(春秋時代)の地図ですが、①東側にある「魯」という国の曲阜で生まれたとされます。

「魯」の国は、後に聖人と崇められる武王が開祖の「周」の影響下にあり、民意にすような良い政治(善政)を敷いていました

孔子はその善政に多大な影響を受けて育ったと言われています。

孔子が生まれた頃の春秋時代(生誕は魯の曲阜)出典:世界の歴史まっぷ

 

 

孔子を語るうえで欠かせない生誕からは晩年までをご紹介しますが、その前に先ずは「論語」の中で孔子が自らの心持ちを述べた有名な章句をご紹介します。

(よく四十代を「不惑」と言ったりしますが、その語源となったものです。)

『子の曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を超えず。』
為政第二の四 / 2-4より

 

◆先生がいわれた、「わたしは十五歳で学問に志し
三十になって独立した立場を持ち四十になってあれこれと迷わず五十になって天命をわきまえ
六十になって人のことばがすなおに聞かれ七十になると思うままにふるまって それで道をはずれないようになった

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

※「論語」から引用する場合に、先に書き下し文を表記して末尾に索引を付けています。この場合は「為政第二の四 / 2-4」が索引で、「為政」は章名で「章のタイトル」に当たります。
章名などは「論語」の箇所で後述しますので、ここでは表記の説明のみです。

 

「論語」の章句を一つ紹介しましたが、ほぼこのような文体でとつとつと述べられています

 

・・・それでは、先に挙げた章句で述べられている心持ちに合わせて、孔子の生涯を追ってみましょう。

 

孔子の誕生から二十代・・・「十有五にして学に志す」

七十にして心の欲するところに従って、矩を超え/論語

孔子は、紀元前551年の魯の国にて、農民の父と祈祷師の母の元に生まれました

当時の祈祷師は文字の読み書きのできる知識階級でもあり、孔子は「古代の土俗的な宗教」を身近にして育ちます

 

家は貧しかったようだが、この母に土俗的な宗教(原儒)の祭祀と共に文字も学んだとする説があります。

父のように農民として生きるのではなく、「知識を武器にして身を立てようと志した」のが十代の心持である「学にして志す」ということでしょう。

この当時、文字を読み書きができたのは貴重な存在だったので、職に就くのも当然有利になります。

 

なお、19歳の頃に結婚をして、翌年に長男の鯉(り)が誕生したそう。

 

努力の甲斐もあり、成人してからは魯の国の家老である季氏の下で「委吏(いり)」という地方役人に抜擢されます。

孔子は役人にありがちな収賄も受けないことから、季氏から信頼を得た後に司職史(家畜の管理)に出世。

 

当時の孔子の仕事ぶりは丁寧で、出納は公平で正確であり、司職史になってからは家畜は大変に繁殖したと歴史家の司馬遷が記した「史記(しき)」に残されています。

 

孔子の三十代・・・「三十にして立つ」

三十にして立つ/論語

二十代で周の国に短期留学も果たし、老子(書物『老子』の作者ではない)と面会した孔子は、改めて都会の洗練された礼を学びます

そのときに孔子は憧れの対象であった「周の国の凋落ぶり」を見て、いつか周王朝の善政を復活させようと決心したと伝えられます。

 

世も乱れて争いごとに明け暮れていた春秋時代に、「愛」や「思いやり」を政治にもたらせようと考えました。

いわゆる『仁(後述します)』の原形が萌芽した三十代だったようですね。

 

そして、孔子が三十五歳のときに、魯の国でクーデターが起こります。

当時の魯の国の君主であった昭公(しょうこう)が、有力家老の御三家で小領主である「三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)」と対立して失脚。

東隣の斉の国に亡命します。

このクーデター事件で魯の国に絶望した孔子は、昭公のあとを追って斉の国に移りました。

 

孔子の四十代・・・「四十にして惑わず」

四十にして惑わず/論語

魯の国でかつての善政を復活させる夢が捨てきれない孔子は、帰国を決意し再び魯の国に戻ります

 

孔子が帰国すると、古典や礼を学ぶ学校が開かれると口コミが広がり、たくさんの弟子が集まりました。

一説には累計3,000人を超えたと伝えられる、孔子の一大学団の誕生です。

初期の門人である顔淵・子貢・子路などの弟子(後述します)は、この頃に集まったとされます。

 

孔子が弟子を教育しているあいだにも、魯の国の政治はますます乱れていきました

前述の三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)は、家臣である陽虎(ようこ)に権力を脅かされ続けていたからです。

 

孔子は陽虎に再三、味方に付くようにと仕官を迫られましたが、のらりくらりと生返事をして仕えることを先延ばしにしていきます。

結局、陽虎はクーデターに失敗して他国に亡命

三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)の影響力は次第に弱まり、相対的に魯の国の君である定公(ていこう)は力を増しつつありました

 

孔子の五十代・・・「五十にして天命を知る」

五十にして天命を知る/論語

魯の国で君あった定公は孔子を重用し、次々と短期間に出世を後押しします。

孔子は大司寇(法務大臣や警察長官にあたる国政を担当する高級官僚)にまで上り詰めました。

 

この頃に孔子の反対勢力である、少正卯(しょうせいぼう/内務次官にあたる)を誅殺し、三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)の無力化にほぼ成功。

 

・・・しかし、順風満帆と思われた矢先、魯の国の秩序回復を脅威に感じた隣国の斉が奇策にでます。

なんと美女八十名と名馬百二十頭からなる女楽(女性歌舞団)を送り込んだのです。

魯の国の定君と側近は彼女たちの舞楽を楽しみ、三日間政治を放り出してしまい、孔子は自分の理想とかけ離れた現状に絶望。

 

孔子は官を辞して、弟子たちを引き連れ長い流浪の旅に出ます。

この出発は、孔子が五十五歳から五十六歳のころと言われています。

 

孔子の六十代・・・「六十にして耳従う」

六十にして耳従う/論語

流浪の民となった孔子学団は、各国を渡り遊説して回り地位を求めますが、全く採用されません。

それもそのはずで、孔子が理想としたのは「愛」や「思いやり」を根底とする『仁』の政治です。

 

他国の脅威や配下によるクーデターに気が気でならない各国の君主は、そんなまどろっこしい話は現実的では無いと思えたことでしょう

(余談ですが「道徳が先か利が先か」は、組織のリーダーの永遠の課題といえます。日本の渋沢栄一はその問題を克服した非情に稀有な例です)

 

孔子学団は、失意を繰り返しながら諸国を放浪しました。

七日間も食料が無い状態に陥り困窮したり、武器を持った軍に襲われ、弟子たちは武器をとって実際に戦うこともありました。

 

孔子は規模の大きな国に重用されないため、やむおえず小さな国にも足を向けます

しかし、小国になればなるほど他国の脅威にさらされる小国の性質上、短期的な利が最優先されます。

そのため、小国になるほど孔子の施策方針を受け入れる余裕はありませんでした。

 

結局、現実の厳しい壁を前にして、孔子一団は約十五年の放浪に終止符を打ち、魯の国に戻ります

このときちょうど、孔子が魯を離れる原因を作った魯の国の定公は亡くなっていました。

 

・・・魯の国に戻った孔子は、改めて学問や教育で後進の指導に力を入れます

すると、孔子の評判を聞きつけて、更に多くの新しい弟子が集まってきました。

 

その後の孔子は帰国してからは、政治の舞台から一線を引いたといわれています。

しかし、魯の国の新しい君主である哀公(あいこう)は、孔子に国老(重臣)ポストを用意して待遇しました。

 

孔子の七十代・・・「七十にして心の欲するところに従って、矩を超えず」

七十にして心の欲するところに従って、矩を超え/論語

大臣として政治には参画しなかったようですが、孔子は哀公からの相談は受けていたようです。

当時の平均寿命を超えた孔子の関心は、弟子の育成と『詩経』『書経』など古代から伝承されてきた書物の誤字を直したり、歴史書『春秋』の再編集に向けられました。

 

・・・そんな孔子の晩年生活に、悲しい出来事が度重なります。

孔子が七十二歳のときに、最愛の門弟である顔淵(がんえん:顔回とも)が亡くなってしまいました

素朴で貧しい暮らしの中でも楽しみを見出す顔淵でしたが、孔子の後継者と目されていただけに、孔子は人目もはばからずその死を慟哭して悲しんだと言われています(後述)。

 

息子の鯉(り)も七十一歳で亡くして、孔子が三十代のころからの弟子である、元やくざ者の季路(きろ:子路とも)も内乱に巻き込まれて戦死します。

 

弟子や息子の度重なる死を経て、孔子は病床で「棺が二本の柱の間に置かれた自分の葬儀の夢」を見ます。

そしてその夢から七日後、孔子は73歳の生涯を閉じます。

『史記』による日付から換算すると、B.C.479年の四月十一日が孔子の命日となりました。

 

・・・孔子の理想とした政治(魯の国の開祖である周公の善政)の実現は、存命中には成就しませんでした。

 

「論語」とは? その意味(概要や思想)など

論語とは?

何度か失望しながらも弟子に囲まれて天寿を全うした「孔子」その人の人生を追ってみると、高い理想に燃えていたことが伺い知れました。

「論語」は、そんな孔子のことばが集められています。

 

・・・しかし、知っているけど実はあまり詳細が分からず、読んだことも無い人が多いのが現在の「論語」の立ち位置ではないでしょうか。

一般的な学生さんが受験勉強で「論語」に触れても、センター試験が終われば忘却の彼方に消え去っていると思います。笑

 

「論語」は日本の文化形成に深く関わっているので、社会人になった後で改めて触れる人も多いかもしれません

また、ビジネス書や雑誌でも経営者の座右の書などで紹介されることが多いので、社会人の先輩からおススメされる機会もあるかもしれません。

 

良い本は人に紹介したくなったりしますが、「論語」のどこにそのような魅力があるのでしょうか?

そんな「論語」の意味(概要や思想)を、詳しく迫ってみたいと思います。

 

「論語」の概要

中国の思想で日本で最も有名な書物の「論語」ですが、下記に一般的解釈も含めて箇条書きでざーっと記します。

「論語(ろんご、りんぎょ)」

◆中国の孔子の思想がまとめられ、「儒教」の代表的な経典とされる
散乱した孔子の言行を、孫弟子が集めて編集したと考えられている
◆孔子の没(紀元前479年)から約700年後に現在の「論語」が定まった

◆本文は二十篇(五百二の章句)で構成
◆二十篇を真ん中で区切り「上論」「下論」と呼ばれる
上下で文体ががらりと変わることなどから、二種が合わされた可能性が高い?(重複個所も多々あり)
少数だが孔子の弟子を「先生」とした章句もある(孫弟子が編纂に加わっている可能性)

内容は孔子とその門弟や時の為政者などとの問答が中心
◆問答は政治論や道徳論などと幅広く(時には)ユーモアを持って語られる
言葉足らずで抽象的な表現も多く、後に無数の注釈(朱子学の「新注」など)が生まれる
◆日本には3世紀ごろに伝わったとも言われ、最も影響力のあった漢学の書とされる

「西のバイブル、東の論語」と評する人もいる

※出典:デジタル大辞泉などから筆者まとめ

有名な書物の「論語」ですが、現在では詳細まで知る「マニア」的な人は少なくなったでしょう。

そのせいか、「論語」には(私も陥っていた)大きな誤解も普段の生活でも散見されるほどです。

 

誤解の一つは、「論語」は長ったらしいといったものです。

実は「論語」の本文自体は短いもので、漢字にして約13000字程度といわれています。

本屋さんで見かける「論語」の本が分厚いのは、漢文に対する書き下し文と訳が併記しているからです。

 

私は漢文と書き下し文はほとんど無視して、訳だけ拾い読みしても1時間程度でも半分以上は流し読みできます。

意外と文章量は少ない書物なんですよね。

 

内容も抽象的で言葉が足らずな箇所も多いのですが、不思議なことに後で自分の体験から意味が補完されていくことが多々あります

これは霊性的な神秘現象ではなく、孔子がわざと抽象的に遠回しで伝えようとしたことによるものです。(歴史書「史記」の記述より)

 

それはそのまま「論語」の魅力にもなっていて、「論語ファン」の経営者層のインタビューで「読むたびに発見があり、気が付くことが増える」とよく聞きますが、本当にその通りです。笑

・・・心地よいのは確かなのですが、同時に何か孔子に見通されているような不思議な感覚もあります

 

【コラム】「論語」は孔子のSNS投稿のまとめ集?

意外に思われるかもしれませんが、「論語」は孔子が著わしたものではありません

多くが門弟との問いや孔子の答えの記録です。

弟子も孔子の言うことを漏らすまいと、大事に服の帯に書き込んだりしていたこともあったとか。

「論語」は孔子のSNS(Twitter/facebook)のまとめ?

「論語」を現在で例えると、孔子がSNSサービスのTwitterでつぶやいた記録を弟子がこっそり集めていて、その孫弟子が孔子の没後に後世に伝えようと編集して出版するようなイメージでしょうか。

孔子はつぶやき量も多いので、現在だと問題視され「炎上」騒ぎになるような、書き込み(つぶやき)も少なからずあります。笑

 

・・・とはいえ、当時の時代背景もあるし、漢文は読点の付け方一つで意味が変わったりと後ほど判明することも多いので、一概に現在の感覚で孔子を非難できない部分があることは理解しておきましょう。

更に孔子や「論語」の誤解の多くは、読み手の配慮の無さに起因することも多々あります

 

「論語」全二十章のタイトル

現在の書籍は編集技術が高度に発達していますが、「論語」が現在の形にまとめられたのは約1800年前です。

その以前に原形を孫弟子が策定したと聞きますが、現在からみるとかなり大雑把な感じが否めません。笑

 

全二十章のタイトルも、章句の始まりの語句を単純に当てたものです。

難しそうな意味が込められてると思えば、意外とそうでなかったりします。

「論語の章名(篇)と章句の数」

【上論】
1, 学而第一 / がくじ / 16章句
2, 為政第二 / いせい / 24章句
3, 八佾第三 / はちいつ / 26章句
4, 里仁第四 / りじん / 28章句
5, 公冶長第五 / こうやちょう / 30章句  
6, 雍也第六 / ようや / 30章句
7, 述而第七 / じゅつじ / 37章句
8, 泰伯第八 / たいはく / 21章句
9, 子罕第九 / しかん / 32章句
10, 郷党第十 / きょうとう / 23章句

【下論】
11, 先進第十一 / せんしん / 26章句
12, 顔淵第十二 / がんえん / 24章句
13, 子路第十三 / しろ / 30章句
14, 憲問第十四 / けんもん / 46章句
15, 衛霊公第十五 / えいれいこう / 42章句 
16, 季氏第十六 / きし / 14章句
17, 陽貨第十七 / ようか / 26章句
18, 微子第十八 / びし / 11章句
19, 子張第十九 / しちょう / 25章句
20, 堯曰第二十 / ぎょうえつ / 5章句

※全二十章 / 五百二章句(正式には二十篇と言います)

・・・よく「論語好きはこの冒頭の章句の暗記は必須事項!」と言われます。

 

これは第一に、重要な章句を辞書のように引く時の「住所」代わりになるからですね。

(現在でも家電量販店に行くと、店員さんは商品を「商品名」ではなく「品番や型番」で識別しますが、全く同じ便宜上のことです)

 

ちなみに、先ほど「弟子も孔子の言うことを大事に服の帯に書き込んだりしていた」と書きましたが、この番地は「衛霊公第十五の六」に記載してる章句のエピソードです。私の場合は「衛霊公第十五の六 / 15-6」と数字も合わせて記載します。

この住所が無いと、後で見返したいときにかなりの時間や労力を消耗します。

 

無理やり暗記しなくても、最初はこんな表記なんだなと思って数字を使ったほうが便利ですね。後で頭に入ってきますよ。

 

「子(し)曰く」・・・「論語」の代表的なフレーズ

私が以前抱いていた「論語」のイメージでもあるのですが、正面に座った厳しそうなお爺さんが眉間にしわを寄せながら「子(し)曰く!・・・」と言っている講義を正座して聞くのが「論語」を学習することでした。

(何か江戸時代の寺子屋的なイメージなんでしょうね)

 

さて、この「子曰く」ですが、正確には孔子が話しはじめるときは「子曰(のたま)わく」と書き下します

目上の人(子=先生)が言う場合の表記で、立場が同じような人の場合は「〇〇曰(いわ)く」です。

 

・・・余談ですが、私はこの冒頭にて「子曰わく」で始まる章句が、全512章句でいくつあるのか手で数えたことがあります。笑

論語の「子曰わく」の登場回数(冒頭)

「子曰わく」の登場回数(「論語」冒頭のみ)

 

全部で243章句が「子曰わく」で始まるので、約半数(全体の47.5%を)占めているんですね。

これだけ多く頻出するだけに、強く印象付けられていると分かりました。

※冒頭以外では文中にも出てきますが、そちらはカウントしていません。気が向いたらまた手で数えてみます。

 

「論語」に綴られた孔子の理念

先ほど前述しましたが、孔子が生まれ育った魯の国は、実力者である三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)が実権を掌握するなど、混乱した状況にありました。

 

孔子が理想としたのは、周王朝の文化を創造した魯の国の開祖である周公で、夢に見るほど憧れていたといわれています。

そして、孔子がその周王朝の良き時代を再現させようと思案して打ち出したのが、最高道徳として掲げる「仁(じん)」です。

・・・下剋上に明け暮れた荒れた時代への処方箋と言ったところでしょうか。

 

「仁」がなぜ善政に関わってくるのか、孔子の理念の広がりをイメージ図にしてみました。

修己治人や徳治主義(孔子の思想や理念)

孔子の理念のイメージ図(修己治人や徳治主義) ※画像をクリックで拡大します

 

孔子はこの「仁」を自分から身の回りへ広げていき、最終的に国から天下へと推し進めていく政治を理想としていました。

親や家族などの年長者に向けた概念である「仁(じん)」が内包しているのが、人間が自然に持っている真心である「忠恕(ちゅうじょ)」と、両親や年長者に対する敬意である「孝悌(こうてい)」です。

これはやがて他者へと広がり、最終的には「徳治主義」として民衆や国家を治めるように、内から外へ外へ広がっていくイメージとなります。

 

その為には、先ず「己を修めて」最終的には「人を治めようと」したのが孔子の政治理念となります。

(後世にこの考え方が発展し、「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)」として、四書のひとつである『大学』に記されるに至ります。)

 

そして、この「己を治めるための道徳律」への段階が、先ほどの「仁(じん)」と「恕(じょ)」となります。

 

「仁」について、「論語」顔淵第十二の冒頭から、門弟からの質問攻めに合う孔子の回答が続きます。

 

最高道徳の他人基準・・・「仁(じん)」

門弟の樊遅(はんち)の質問に対する、孔子の回答は実にシンプルなものでした。

『樊遅、仁を問う。子の曰わく、人を愛す。』顔淵第十二の二十二 / 12-22

 

◆樊遅が仁のことをおたずねすると、先生は「人を愛することだ。」といわれた。

孔子の「仁」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より、一部抜粋

 

 

・・・更に孔子は「仁」を様々な言葉で門弟に説明します。

『夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、
己達せんと欲して人を達す。』
雍也第六の三十 / 6-30

 

◆そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、
自分がいきつきたいと思えば人を行きつかせてやる

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より、一部抜粋

 

『仲弓、仁を問う。子の曰わく、(中略)
己の欲せざる所は人に施すこと勿(なか)れ。』
顔淵第十二の二 / 12-2

 

◆仲弓が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、(中略)
自分の望まないことは人にしむけないようにする。」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

「己達せんと欲して人を達す」「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」と続きましたが、これらは「論語」中でも大変に有名なことばです。

共に「仁」について語っている大事な場面なんですよね。

・・・このように「論語」の中から拾い集めてみると、「仁」の概要が浮かび上がってきます。

 

この「仁」と次に紹介する「恕(じょ)」は近しい概念で、普通に読んでいたら「似たような意味」で流してしまいそうなところではあります。

 

では、どこに違いがあるのかという疑問に対して、日本の資本主義の父といわれた渋沢栄一は「仁」と「恕」について、それぞれ「他人基準=仁」「自分基準=恕」だとしています。

「仁」はを他人基準であるために(実践するのが)難しいレベルにある道徳とすると、道徳として最高位にありますね。

 

「仁」に至るまでの自分基準・・・「恕(じょ)」

渋沢栄一はこの他人基準である「仁」に至る段階で、自己を主眼とする「自分基準」があるとします。それが「恕(じょ)」となります。

 

この「恕」は、孔子が貫いたひとつの道として「論語」の中で門弟の曾子(そうし)子貢(しこう)の問いに対して回答しています。

『子の曰わく、参よ、吾が道は一以てこれを貫く。曾子の曰わく、唯。
子出ず。門人問うて曰わく、何の謂いぞや。
曾子の曰く、夫子の道は忠恕のみ。』
里仁第四の十五 / 4-15

 

◆先生がいわれた、「参よ、わが道は一つのことで貫かれている。」
曾子は「はい。」といった。先生が出てゆかれると、門人がたずねた、「どういう意味でしょうか。」
曾子はいった、「先生の道は忠恕のまごころだけです。」

 

『子貢(しこう)問うて曰く、一言にして以て終身これを行うべき者ありや。
子の曰わく、其れ恕か。
己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。』
衛霊公第十五の二十四 / 15-24

 

◆子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生おこなっていけるということがありましょうか。」
先生はいわれた、「まあ恕(じょ:思いやり)だね。
自分の望まないことは人にしむけないことだ。」

孔子の「恕」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

「仁(じん)」と「恕(じょ)」が孔子が大切にしていた理念の中核にあたるものですが、私は渋沢栄一の解釈で序列がはっきりとしました。

自分基準である「恕」を経て、最高道徳である「仁」に至ろうとしているんですね。

※参考文献:『「論語」に帰ろう』平凡社新書 より

 

孔子の教え「儒学」≒「儒教」は宗教なのか?

「論語」や儒教は宗教なのか

さて、何かのタイミングで「儒教(じゅきょう)」や「儒学(じゅがく)」と聞いたことがありませんか?

この「儒教」と「儒学」は、現在ではほとんど同義として混在しながら使われていますが、これらは一般的に「体系的にまとめられた『孔子の教え』」ぐらいの意味で捉えていると思います。

(「教」とついているから、普通に考えれば「宗教」と捉えるのも無理は無いと思います)

 

現在の辞書的な解釈では、下記のようにありました。

じゅ‐きょう〔‐ケウ〕【儒教】

孔子が唱えた道徳・教理を体系化したもの。その学問内容を儒学という。儒教は、その国家教学としての規範性・体系性を強調した称。

出典:デジタル大辞泉

「体系化した(中略)学問内容」とありますが、私も「孔子の教え」が好きなだけで特には「宗教扱い」はしていません

他の宗教(仏教やキリスト教など)と同列かと言われると違う気がしますし、私は差支えが無い限りは平たく「儒学(じゅがく)」と呼べばよいかなと思っています。

 

・・・孔子の生涯は、苦難と希望が入り混じった人間らしいものでした。

もし宗教家として孔子に期待(?)されても、あいにく他の宗教の開祖に見られる奇跡は特に伝えられていません

 

また、孔子は母が「原儒」と言われるような土俗な宗教家だったと言われていますが、その母に育てられたにも拘わらず、孔子自身はかなりの現実主義者だったようです。

 

「論語」を読んでいくと、何度か「鬼神」という言葉が出てくることに気が付きます。

これは現在のニュアンスで「神霊(≠スピリチュアル)」ぐらいの意味でしょう。

 

この「鬼神」についての孔子の言及をいくつか紹介します。

『季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。
子の曰わく、未だ人に事うること能わず。焉(いずく)んぞ能く鬼に事えん。

曰く、敢えて死を問う。曰わく、未だ生をしらず、焉んぞ死を知らん。』先進第十一の十二 / 11-12

 

◆季路が神霊に仕えることをおたずねした。
先生はいわれた、「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう。」

「恐れいりますが死のことをおたずねします。」というと、「生もわからないのに、どうして死がわかろう。」

 

『子、怪力乱神を語らず。』述而第七の二十 / 7-20

 

◆先生は、怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった

 

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

孔子の教えの言行録まとめである「論語」には、神秘的オカルティックな部分は特にありません

「宗教の条件」は立場や時代によって変容するものでしょうが、やはり私は単純に「孔子の教え」として捉えようと思います。

 

また、古代の中国では「宗教」「哲学」「思想」といった近代西洋風の概念がありません

現代の概念での「宗教」という枠組みには、余計に当てはまめるのも無理があると考えます。

 

・・・以上から、このサイトでは非宗教として「孔子の教え≒儒学・儒教」を扱います。あしからず。

 

現在の日本における「儒教」の立ち位置(文化庁発行の「宗教年鑑」より)

平成28年度 宗教年鑑(文化庁編)

 「宗教年鑑 平成28年度版 」文化庁編

 

・・・とはいえ、少し気になるので、「儒教」が宗教として日本にどのように根付いているかを調べるために、文化庁が毎年発行している白書の「宗教年鑑」を引いてみました。

現在の日本における「儒教」の立ち位置

はじめに

日本には,神道,仏教,キリスト教,諸教など多種多様の宗教文化が混在している。 神道では古くから各地に神社が祀られたほか,幕末維新期には多数の神道系教団が創設された。

仏教は,6 世紀半ばに移入され,さまざまな宗派が成立し,全国に寺院が分布するに至ったが,明治時代以降も新しい仏教系教団が多く創立されてきた。中国からはこのほか儒教や道教も古代から伝えられており,諸宗教の中に根づいているものもある

キリスト教でもカトリックやプロテスタントの諸教派が伝えられ,イスラーム,ヒンドゥー教,ユダヤ教なども活動している。

出典:文化庁 宗教年鑑 平成28年度版 P.1より

 

教派神道系の諸教団は,神道的要素を基調とするものの,さらに儒教,仏教,道教,修験道その他多様な要素を具備し,創唱者の独創的思想を中心としてそれぞれ独自性を示し,教派神道と称しても一概にその内実を語ることは困難である。

出典:同上 P.5より

日本は多神教(神道の「八百万の神」)のような風土があるので、「儒教」は神道系に組み込まれた宗派に取り込まれているようですね。

以上から、「儒教」単体での宗派や活動自体は無いと考えて良さそうです。

 

【コラム】「宗教化への警戒」・・・儒者捨場(じゅしゃすてば)@東京都文京区

江戸時代に孔子の教えとして「儒教」は大いに奨励されますが(後述)、宗教としての導入は徳川幕府に相当に警戒をしていたようです。

葬儀を「儒教式」で執り行うことも随分と警戒されていました。

 

幕府の警戒を象徴しているのが、例え高名なお歴々の儒学者でも、仏教式で埋葬されているという事実です。

そんな時代背景でも「儒教式の葬儀」を強行した江戸時代の儒者もいましたが、そのお墓はその後は子孫による祭祀が途絶えてしまったそう。

 

文京区の大塚にある大塚先儒墓所は、そんな儒者のお墓がある場所です。

誰が名付けたか「通称:儒者捨場(じゅしゃすてば)」とは言い得た表現ですが、何か残念な気持ちが残りますね。

現在は皮肉にも別の宗派である近所の吹上稲荷神社に管理され、湯島聖堂が「先儒祭」として毎年10月に祭祀の儀式を行っているそうです。

 

◆大塚先儒墓所 〒112-0012 東京都文京区大塚5丁目23

 

 

「論語」と日本の関係

日本の歴史と「論語」の交わりは古くて長いもので、実は「仏教」の伝来より前だったことは、また意外に思うかもしれません。

前述の宗教年鑑によると仏教の伝来は6世紀と記載されていますが、「論語」自体の伝来は3世紀と言われています。

 

日本の土着信仰である「神道(しんとう)」に、「儒教」や「仏教」が影響しあう日本の独特の宗教観が育まれたのですね。

 

最初の記録(古事記や日本書紀)

日本へ「論語」が持ち込まれた記録としては、「古事記」や「日本書紀」に伝えられています。

時代は4世紀から5世紀の境目辺りで、応神(おうじん)天皇が朝鮮の百済(くだら)に対して知識人の派遣を要請しました。

その際に遣わされ渡来したのが王仁(わに)となります。

 

王仁は「論語」と共に、初学者用の「千字文(せんじもん)」を応神天皇に献上しました。

記録としての一次資料(4世紀あたり)の出自より前に、実際に伝わったのは3世紀頃ではないかという説が有力とのこと。

 

聖徳太子の「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」に見られる影響

王仁(わに)が日本に伝えたとされる「論語」は、日本の思想に影響を与えました。

その影響が見られるのは、604年に制定したといわれる「十七条憲法」です。

聖徳太子

聖徳太子(出典:Wikipedia

 

推古(すいこ)天皇の時代に活躍したと言われる聖徳太子(※現在は実在しない説が有力が、制定したとされています。

論語」の影響は、その冒頭の一条目にあたる部分に見て取れます。

十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)

『一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し忤(さか)ふること無きを宗とせよ。・・・

◆(意訳)ひとつ、「調和」をなにより大切なものとして、争いを起こさないことを志としよう。・・・

出典:Wikipedia

この和(やわらぎ)を以て貴しと為し忤(さか)ふること無きを宗とせよ。」という部分は、論語(他に「礼記」にも)のこちらが出典と言われています。

 

『有子が曰く、礼の用は和を貴(たっと)しと為す。』学而篇第一の十二 / 1-12

 

◆有子がいった、「礼のはたらきとしては調和が貴いのである。」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より、一部抜粋

「論語」では孔子の門弟である有子(ゆうし)が語ったとされる一節ですが、「十七条憲法」の大事な冒頭の一番初めに見られる辺りに、思想的な影響が強く及んでいたことが分かりますね。

 

戦国時代から江戸時代・・・徳川家康が「論語」で権力維持に成功する

6世紀に仏教が日本に伝来すると貴族の間で、仏教を利用して内政の安定を図る「鎮護国家(ちんごこっか)」の思想が広まり、「論語」は活用されなくなったといわれています。

政治を執り行う為政者は、内政が安定する思想が大好物です。

その後は、仏教は大いに推奨され、戦国時代まで仏教の時代が続いています。

 

戦国時代といえば、天下統一を成し遂げた「三大武将」としてお馴染みなのが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ですね。

織田信長や豊臣秀吉の天下は一代で潰えていますが、後者の徳川家康は十五代に渡る安定政権(江戸時代)を確立しました。

その命運を分けた差はどこにあったのでしょうか?

徳川家康(出典:Wikipedia

その要因として、「論語」をはじめとした「漢学による思想の力」が大きいと言われています。

 

三大武将のうち、信長は「武力」、秀吉は「財力」で天下を支配しましたが、結局は長続きはしませんでした。

家康は「思想」で天下を支配しようと、1592年から秀吉が「文禄・慶長の役(朝鮮出兵)」が得ていた戦利品に目を付けます。

それは日本と同じように仏教に押されていた当時の中国で、儒教再興のきっかけとなった「朱子学(儒教・儒学)」でした。

 

天下を統一した家康は、一大勢力となり、扱いにくくなった仏教の僧侶に距離を取りながら、この「朱子学」を学んだ藤原惺窩(ふじわらせいか)や林羅山(はやしらざん)の師弟を自陣に取り組むことに成功します。

藤原惺窩は家康の出仕の願いに対して、自身の代わりに弟子の林羅山を推挙。

 

若くして家康に取り入れられた林羅山は、その子孫(林家)も徳川家のブレーンとして代々仕えることになります。

 

・・・「目上を敬う」ことは孔子の教え(儒教・儒学)の根本思想の一つであります。

その教えが体系化された「朱子学」は、為政者にとって大変に都合のよいものでした。

 

幕府の歴代為政者(徳川家)に重用された儒教・儒学でしたが、第五代徳川綱吉の頃には正式な官学として採用され、最盛期には15000を超える寺子屋が存在したといわれます。

徳川綱吉

徳川綱吉 出典:Wikipedia

寺子屋は「論語」をはじめとした漢学が普及する素地となりました。

 

・・・江戸時代に再受容された儒学・儒教を、現在では「水割りの儒教」とも言うそうです。

これは為政者にとって都合の悪い事や普及の障害になる、煩雑になった喪の儀式などが割愛されているからだとか。

 

端的に言えば、宗教的な要素などを薄めたということですね。

反対に、日本に伝えられた儒学・儒教には、薄まらなかった部分もあります。

 

「論語」の本質的な部分である、「徳目」を修めやすいことが挙げられます。

これは、日本では中国のように「科挙(かきょ)試験」もないためと言われています。

その結果、18世紀には識字率は世界最高峰となり、黒船で開港を迫ったペリー提督も当時の日本人の威厳を評するまでになりました。

 

幕末~明治維新・・・「否定派」の福沢諭吉と「肯定派」の渋沢栄一

江戸時代の230年の太平を支えたのは「朱子学」でしたが、その朱子学を否定して後世に伝えた「陽明学」も日本に多大なる影響を与えました。

 

その陽明学は明治維新の原動力にもなったことは確かですが、再び時代の振り子を儒学・儒教(朱子学)から離そうとする動きもでてきます。

 

開国を経て強大な西洋文明を目の当たりにした明治時代でしたが、西洋に対抗するためにはどのようにするべきか?

れまでの朱子学を始めとした漢学全般を徹底的に否定したのが、一万円札の肖像でお馴染みの福沢諭吉です。

福沢諭吉

福沢諭吉(出典:Wikipedia

福沢諭吉その人は漢学には深い造詣がありながらの舌鋒だったので、漢学派から大変に憎まれたとも言われてます。

 

そして、肯定派の代表が「日本資本主義の父」こと、渋沢栄一です。

渋沢も福沢諭吉と同じように、黒船来航などから西洋文明に大変な危機感を覚えましたが、渋沢が選択したのは「資本主義による国力の増強」でした。

 

渋沢は「論語」を「もっとも欠点の少ない教訓」として、資本主義の基盤となる民間企業をすさまじいスピードで次々と立ち上げます

渋沢のモットーは「義利合一(道徳経済合一説)」で、当時の道徳観から蔑まされていた「商業」に論語の「道徳」を持ち込み、拝金主義のブレーキ役として「論語」を大いに活用しました。

(渋沢に関しては前のエントリーで詳しく書きましたので、気になる方はこちらからどうぞ)

 

「義利合一(道徳経済合一説)」と共に、渋沢の代名詞ともいえるのが「論語と算盤」です。

こちらは晩年の講演録のタイトルに名付けられたもので、「義利合一」と意味は同じことを指しています。

 

・・・日本の第二次大戦後の奇跡的な復興は、渋沢が整備した下地も大きく貢献したことはいうまでもありません。

 

中国での「論語」は、数度の迫害を経て大ブームに?!

孔子や「論語」を輩出した中国ですが、その「儒教」「道教(老子や荘子の系譜に近い)」と後に伝来した「仏教」を合わせて「中国の三大宗教」とされています。

 

中国は日本と同じように、他の宗教が為政者に支持され続けると、たまに反動で「儒教」が評価されるという歴史を繰り返しています。

裏返すと「儒教」の歴史は、そのまま弾圧の歴史でもありましたが、現在は資本主義経済の反動もあって「論語」が見直されています

(その再評価の機運のなかで、渋沢栄一の「論語と算盤」も翻訳が出版されたり、大学機関で研究対象にも)

 

ここでは「儒教」の取り扱いに紆余曲折があった中国の歴史を眺めてみます。

 

紀元前213年頃・・・秦の始皇帝による「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」

万里の長城

秦の始皇帝は儒者(儒教の信奉者)に批判されているとのざん言を受けて、挟書律(きょうしょりつ:医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定します。

惜しくも、それ以外の書物(「論語」なども含む思想書)は、集められて全て焼却されてしまいました。

これが最初の段階である「焚書(ふんしょ)」ですね。

 

そして翌年には、ある儒者たちが始皇帝の施策を非難して他国へ逃亡したために、その地の儒者460人余りを生き埋めにしたといわれています。

これが「坑儒(こうじゅ)」で、古代の感覚からしても大変にショッキングな事件でしょう。

 

因みにこの始皇帝の「焚書」で、成立前の「原・論語」はからくも散逸を逃れたが、後に散逸してしまったそうです。

・・・未だに謎の多い「論語」ではあるので、一論語ファンとしても本当に残念であります。

 

1970年代前後・・・文化大革命時代「批林批孔(ひりんひこう)」運動

天安門広場

中国共産党の血塗られた革命で悪名高い、「プロレタリア(無産階級)文化大革命」こと1966年に起こったいわゆる「文革(ぶんかく)」でも、孔子の教えや儒教は「封建的」だと名指しで批判され弾圧されました。

 

「封建的(ほうけんてき)」

[形動]封建制度特有の性質をもっているさま。一般に、上下関係を重視し、個人の自由や権利を認めないさまをいう。「封建的な考え方」「封建的な企業体質」

出典:デジタル大辞泉

文化大革命の「批林批孔(ひりんひこう)」のスローガンの下で、孔子は極悪非道の人間とされます(批孔)。

「後に政争に敗れて墜死する軍人・政治家の林彪(りんぴょう)も、孔子と孟子の教えを復活させようとしたと非難されました(批林)。

 

この文化大革命で、中国国内の「儒教・儒学」は壊滅状態になったと言われています。

 

1990年代・・・「社会主義市場経済」で未曽有の経済成長を実現

中国の「社会主義市場経済」

さらに時代は経て、中国共産党は同じ共産圏のソビエト連邦の崩壊(1991年)を横目に、政体(共産党の一党独裁)は維持しつつ、部分的な「市場経済」へ移行することを決定します。

 

1992年には第十四回中国共産党大会において、鄧小平(とうしょうへい)が「社会主義市場経済」を宣言

(従来の共産主義の計画経済体制からの移行は、世界に驚きを持って迎えられました。)

思想信条の範疇を超えた未曽有の大実験でしたが、紆余曲折を経て中国は世界の経済大国に着地した感があります

 

そして、20年後の答え合わせですが、中国の国内総生産/GDPは1996年の世界7位から、2016年にはアメリカに次ぐ世界2位にまで躍進することになっています。

中国の「国内総生産 GDP」推移(1996-2016)

中国の「国内総生産 / GDP」推移(1996-2016)出典:Google 調べに筆者が加工

人類の未曽有の大実験は中国を20年で経済大国へ押し上げたことから、ひとまず「大成功」と言えるものだったでしょう。

しかし、物事には「作用・反作用の法則」がはたらきますが、この未曽有の経済成長にも反作用の影がありました。

 

日本もバブル期に陥った「拝金主義」に中国も脅かされることになります。

 

2000年代・・・拝金主義からの反動?「北京オリンピック」開催から「論語ブーム」へ

北京オリンピック(鳥の巣)

中国の急激な経済成長により、「拝金主義化」は社会問題になります。

 

1996年の「社会主義市場経済」宣言から10年後の2006年10月、中国CCTV(国営放送:中国中央電視台)の人気番組「百家講壇」で、北京師範大学教授である于丹(うたん/ユーダン)の講話が、中国に何度目かの「論語ブーム」を巻き起こしました

于丹(うたんユーダン)

于丹 出典:中国网(チャイナネット)

当時は中国全人口の約半分(7億人!)が視聴しているとも言われた。

また、その時の講話をまとめた『于丹論語心得』は、海賊版も含め、これまでになんと1000万部以上が売れた

 

現在の中国の最高指導者である胡錦涛国家主席もこの本にいたく感動したと言われ、それまで古典には見向きもしなかった中国の若者たちがこぞって「四書五経」をひもとくようになるなど、

まさにこの本は「于丹現象」と呼ばれる未曽有の”『論語』熱(『論語』ブーム)を引き起こしたのである。

出典:『論語力』于丹著の序文:孔健(孔子第七十五代直系子孫)より

上記の引用にもありますが、中国で大ブームを巻き起こした『于丹論語心得』は日本でも2008年に『論語力』というタイトルで出版されています。

潜在意識で中国人も「このままではマズイ」という自浄作用が、この「論語ブーム」を巻き起こしたのかもしれませんね。

 

・・・そして、急激な経済成長のさなかの2008年に「北京オリンピック」が開催されました。

 

その開会式では、有名な「論語」の冒頭の一節を用いて「朋あり遠方より来たる。(学而第一の一 / 1-1)と宣言するなど、「道徳の確立」を打ち立てようとしている中国の姿勢が垣間見た気がします。

中国では孔子が高く評価されている

経済発展などで自国文化への自信がますます高まっていることと、拝金主義などもまん延する中で自民族の伝統に根ざした道徳観の確立が必要との考えが強まっているためだ。』

北京オリンピック開会式(論語)

北京オリンピック開会式の報道 出典:searchina(サーチナ)

 

 

孔子と「論語」が再評価される流れで、北京オリンピックの翌年の2009年、映画『孔子の教え』が製作され公開されました。

ハリウッドでも活躍するチョウ・ユンファ(周潤發)が孔子役を演じています。

 

下記は、その映画『孔子の教え』の予告編(トレーラー)動画です。

 

2011年には、政治面と文化面で大きな動きがいくつかありました。

北京市の天安門広場の東側にて、高さ9.5メートル / 重さ17トンという巨大な孔子像が設置されましたが、わずか三カ月で撤去される事件が報道されました。

孔子像撤去のニュース

「孔子像撤去」の報道 出典:Record China

中国共産党の心臓部でかつての指導者である毛沢東(もうたくとう)が永眠するこの地に、政敵かつ封建主義の象徴ともいえた「孔子像」の設置は時代の変化を感じさせるものでした。

しかし、瞬く間に撤去されてしまうところを見ると、中国政府も一枚岩でないことが伺い知れます

 

また、2010年には民主活動家の劉暁波(りゅうぎょうは)氏受賞した「ノーベル平和賞」に対抗して、2011年「孔子平和賞」を創設したり、別団体も「孔子世界平和賞」創設しました。

しかし、こちらもすぐに活動を停止しています。

 

文化面では同2011年、製作費10億円のドラマ『恕の人 孔子』が製作され放映されています。

この映画には日本の俳優である、いしだ壱成さんも重要人物の門弟である「顔淵(がんえん)役」で出演しました。

 

下記は、そのドラマ『恕の人 孔子』の予告編(トレーラー)動画です。

 

冒頭で前述しましたが、孔子の教えである「儒教」はメインである他の宗教で飽き足らなくなると反動として持ち出される傾向にあります

日本しかり、本場の中国しかり。

 

バブルの反動からの「論語」ブームを経て、中国では「儒商(じゅしょう)」という言葉も生まれています。

急激な成長には様々な歪が出てきますが、今回の「論語」ブームからさらに約10年が経とうとしています

 

さて、中国のバブル気質はどのように改善されているでしょうか

 

・・・たとえ良くない事とは頭でわかっていても、短期的な視座で利得に走るのが人間の性(さが)みたいなものです。

日本も通った道ですが、中国の経済成長は更にスピード感やスケールの大きさが違いました

 

日本に訪れる中国人観光客のインバウンド消費も様変わりしているそうなので、道徳的な内面の変化も起きているかもしれませんね。

 

西洋は「論語」の価値を見出せなかった

さて、東アジアに多大な影響を及ぼした孔子の教えや「論語」ですが、残念ながら西洋ではあまり評価されていないようです。笑

 

ルイ十四世の時代・・・フランスでプチブレイク?!

西洋で「論語」が最初に大きく紹介されたのは、フランスのルイ十四世の時代だったそうです。

1687年にラテン語で「論語」などが翻訳され、『中国の哲学者孔子』の教えはフランスで大反響を巻き起こしました。

 

・・・しかし、残念ながらその後ヨーロッパで定着されることはありませんでした。

一説には、当時の中国人が孔子の教えとかけ離れた姿だったからとも言われています。

『しかし、この中国熱は、実はあっという間に冷めていきます。

にイエズス会以外の宣教師や商売人が中国を訪れると、フランスで賛美されている姿とはかけ離れた、ずるくて汚い中国一般庶民や商売人の姿が明らかになっていきます

この報がもたらされると、熱狂の反動で急激な落胆が襲ってしまいました。』

出典:『論語に帰ろう』平凡社新書より

・・・この件の以後は、「論語」や孔子の教えがヨーロッパで評価されることは無くなったそうです。

 

(余談ですが、日本の渋沢栄一が資本主義を導入するにあたって、日本の商人の現状に落胆して「道徳」の必要性を説く必要性を感じたと言いますが、私はこの時代の中国人の姿に当時の日本商人のイメージを重ねてしまいました。)

 

さらに19世紀に入ると、ドイツの政治・経済学者のマックス・ヴェーバーが、その著書(『儒教と道教』)で「論語」を「インディアンの老酋長の語り口に似る」と指摘しています。

このヴェーバーのくだりは、欧米人からみる「論語」の評価を象徴している感じがします

 

「経営学の父」ドラッカーが渋沢栄一の「義利合一説」を称賛

20世紀の戦後の日本に強い影響を呼ぼした、経営学者のピーター・ドラッカーは、渋沢栄一の高い道徳性を持った経営観を高く評価しました。

ドラッカー

P.F.ドラッカー(出典:ドラッカー公式サイト

ドラッカーの渋沢評

◆『率直にいって私は、経営の「社会的責任」について論じた歴史人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。

彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は「責任」にほかならないということを見抜いていたのである。』

 

◆『本書全巻を貫くものは、結局、渋沢栄一がかつて喝破した「経営の本質は”責任”にほかならない」という主題につきるといえる』

※出典:『渋沢栄一の「論語講義」』平凡社新書より

もはや言うまでもありませんが、ドラッカーが評価した渋沢栄一の道徳の規範は「論語」となります。

 

「Confucius says…(孔子は言った)」で始まる定番ジョーク

「子曰く」というお馴染みのフレーズは、「論語」の本編でも約半分(全体の47.5%)を占めている代表的なフレーズと前述しましたね。

 

この「子曰く」は英語で「Confucius says.(※孔子は英語読みで「コンフューシャス」と呼ぶ)といいますが、続けて「わざと文法を間違えて大げさに話す」という孔子ジョークが定番化されているようで、何ともな気持ちになります。

 

下記は、Googleの画像検索で「Confucius says」と検索した一覧となります。

「Confucius says(孔子は言った」のGoogle画像検索結果

「Confucius says(孔子は言った)」出典:Google画像検索結果(2017年11月末現在)

ジョークのネタ元として、定着しているようですね。

 

それでは、「Confucius says」のネタは、実際どのようなものでしょうか?

気になるので、上記の適当な英語サイトで見た「孔子ジョーク」のサンプルを二つ紹介します。

『Confucius say, virginity like bubble. One prick – all gone』

◆孔子は言った。バージンはしゃぼん玉みたいなものだ。ひと突きで全て無くなる。

『 Confucius say, man who run behind bus get exhausted』

◆孔子は言った。(乗り遅れた)バスの後ろを走って追いかけると、疲れる。

・・・ひわいな物から日常のあるある等、どうでも良いような内容を「もっともらしく言う」ことが、何となく分かったような気がします。

はい。

 

「論語」は現代社会やビジネスでも役に立つのか

一般的に「説教臭い」「上下関係にうるさい」とネガティブなイメージも持たれることもある「論語」ですが、時代遅れの化石で現代社会では役に立たないのでしょうか?

さらに、現代ビジネスに役立つ要素はあるのでしょうか?

 

結論から言うと、私は「十分に活用ができる」と思ってこのサイトの中心概念に「論語」を置いています。

それは下記の3つの理由からなります。

 

「論語」から学ぶべき3つの理由

私は特にこちらの3点が、現代の人も「論語」から学べる大きな示唆だと思います。

①中国の格言「『論語』の半分(半冊)もあれば、天下を治めることができる」

②「日本で最も成功した起業家」とも言える、渋沢栄一の生涯を貫いた教訓である

③生前に理想が「成就しなかった」孔子と「成就した」渋沢栄一から大事な示唆が得られる

 

①中国の格言・・・「『論語』の半分(半冊)もあれば、天下を治めることができる」

「論語」には孔子の理想とした善政を実現させようとした想いが、たくさん散りばめられています。

孔子は自分から律して、最終的には社会までその徳を広げていく考え方なので、「論語」においても先ずは自分を治めようとする問答が多くなっています

修己治人や徳治主義(孔子の思想や理念)

再掲:孔子の理念のイメージ図

 

そして、中国には「論語の半冊で天下を治める」という格言もあります。

「論語」には抽象的でシンプルなことばが多いのですが、現代ではすぐに「自分本位」で考えがちなので、なかなか実践も難しかったりします

(中国の格言の裏返しですが、かつての歴史上で「論語」の半分も実践できた人が少ないといったら言い過ぎでしょうか。)

 

身に着けるのが難しいとはいえ、永らく読み継がれてきた「論語」は、現在でも有益な「立ち居振る舞いの教科書」です。

 

②「日本で最も成功した起業家?!」・・・渋沢栄一の生涯を貫いた教訓

渋沢栄一は日本に資本主義を持ち込む際に、様々な社会的な基盤を整備するため、約500社ともいわれる会社を設立してきました。

この記事でも何度か触れているとおりで、「もっとも欠点の少ない教訓」として「論語」を活用した事実があります。

 

現在に生きる私たちも、「成功者の〇〇さんが話す△△セミナー」というイベントを目にすることがありますよね。

成功の裏付けがあると、つい参加してもいいかなという気持ちになります。

 

・・・見方を変えると、日本で渋沢栄一ほど成功した会社に関わった人物はいないと思います。

その成功者が教訓としたのが、「論語」というわけです。

 

2000年代のバブルを経験した中国で、自浄作用による「論語」ブームが巻き起こったと先ほどの章で前述しました。

 

そのブームのさ中で、日本の渋沢栄一の「論語と算盤」の翻訳本が出版されたり、華中師範大学では「渋沢栄一研究センター」も開講されています。

こちらも裏返しになりますが、渋沢のような日本人に着目し研究されるということは、中国でここまで「論語」を大胆に解釈して活用した人物がいなかったといえるでしょう。

 

渋沢栄一の「論語」の理解や活用はかなり実践的で、学術界からは批判されることもあったと思います。

しかし、「論語」を資本主義に転用して、その後の未曽有の日本の経済成長を促しました。

 

また、渋沢は自分が天下を握るということをしませんでした。(どちらかというと、真逆な考えを持っていた)

三菱の創始者である岩崎弥太郎からは、実際に話を持ち掛けられたと伝えられています。

 

・・・もし、手を組んでいたら、日本の戦後の風景も今とは違ったものになっていたはずです。

このような事実をまとめると、「論語の全てを持って天下を治めるチャンスもあったが、渋沢は自らの手にしなかった」という感じでしょうか。

渋沢栄一が掲げた「義利合一説(道徳経済合一説)」は、「論語」という規範があってのものでした。

 

「仁義と利益」は、対立軸で相反しないものだと、渋沢栄一は実践した結果から私たちに教えてくれています。

「論語」はその基盤になるもので、現在ビジネスで応用しても何ら色あせていないものです。

 

③生前に理想が「成就しなかった」孔子と「成就した」渋沢栄一・・・ここから得られる示唆とは何か

ここで重要なことですが、孔子は生前に理想とした政治は結局は成就せずにこの世を去ってしまいますが、渋沢は日本の資本主義の基盤を整備することに成功したといえます。

この差はどうして生まれたのでしょうか?

 

これは私の考えですが、孔子の唱える政治観は、短期的な視座でなく中・長期的な視座であったために、当時の為政者に受けが悪かったことが大きな要因だと感じています。

「中・長期的な視座での善政」が政治に良い影響を及ぼすことは当時の為政者も理解できたと思いますが、時は混迷の春秋時代です。

為政者の立場から見ると、孔子の理念めいたアドバイスは「一体いつ頃に効果が出てくるんだ」と、まどろっこしく感じたかもしれません。

 

当時の孔子は、「他にもいる多くの外部アドバイザー」の一人でしかありません。

為政者は他に耳障りの良いアドバイス(短期的な視座)との比較もあったでしょう。

 

・・・孔子は50代で流浪の旅に出ますが、大国である魯の国が採用し難かった施策方針は他国でも受け入れられませんでした。

孔子は行く当てもなくなってくると、小国に足が向きました。

しかし、他国の脅威をより受けやすい小国が欲するのは、さらに短期的な視座であるはずです。

孔子が流浪の旅に行き詰まるのも、必然だったと私は思います。

 

現実のビジネスや会社でも、実際の利得に到達するまでのイメージがし難いと、決裁者はなかなか意思決定がし難いものです。

この構図は、今から2500年前の出来事とはいえ、現在ビジネスにもぴったりと当てはまります

 

それに対して、渋沢栄一が目指した資本主義化は「中・長期的な視座」です。

ペリーの黒船襲来などで西欧との国力差を思い知らされた日本は、遮二無二かつダイナミックに変革し続けました

 

アクセルを踏み続ける「短期的視座」での拝金主義化も懸念されたので、ブレーキ役として「論語」も装備しました。

渋沢栄一は、このバランスが秀逸だったと思います。

 

歴史の「もし」は禁物ですが、資本主義の導入に際してうまくいくか分からない一人の資本家が「道徳が大事だ!経済は二の次だ!」と頭ごなしにしていたら、資本主義の導入はここまで進んだのでしょうか?

当時の明治政府は「軍備こそ国力」に傾倒してざっくり会計で事を動かしていたので、私はここまで上手く事は運ばなかったような気がします

・・・渋沢栄一が講演で「道徳が大事」だと力説しましたが、これは晩年のことだそうです。

 

この辺りの「短期的視座(実利=算盤)」と「中・長期的視座(道徳=論語)」の取り扱いは、現代社会でも十分に当てはまる真理だと考えます。

理想がある程度成就したであろう渋沢栄一大胆な「論語」の解釈と施策の順番は、実社会で経営やマーケティングをする際には、十分に念頭に置く必要があるでしょう。

 

だからといって、孔子の身の振る舞いが悪いとも思いません。

渋沢栄一のアプローチは、後年に生きる私たちだからこそ読み取れる部分です。

 

孔子や「論語」の評判・名言など

私も実際に「論語」をしっかりと読んでみようと思ったときに、勝手に抱いていた孔子のイメージがありました。

前述しましたが「なんか説教調で堅苦しいetc…」なイメージですね。

 

しかし、読み進めていくうちに、「論語」のイメージはかなり変化していきました。

変化したきっかけは、孔子の人となりを知って、弟子たちのキャラクターを掴むと、論語の様々な言葉のイメージが増幅していったことです。

・・・この章が「論語」を読む上で、少しでもイメージの助けになればと思います。

 

孔子のエピソードや人となり

孔子は2500年前の人物ではありますが、人類の進化の過程から見ればたった2500年です。

孔子の生きた時代も、現在の私たちと同じように食事や文化的な事を楽しむ生活が営まれていました。

 

その反面、思想や文明は2500年で格段に進歩したので、現在の感覚からは違和感も生じると思います。

・・・そこは割り引いて「論語」や孔子を捉えると、さらにその世界観を楽しめるでしょう。

 

「ハト派?」の孔子

 

孔子は弟子たちに「先生はどのようにありたいか?」と、孔子の望みを聞かれた際に、このように答えています。

『子の曰わく、老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐けん。』公冶長第五の二十六 / 5-26

◆先生はいわれた、「老人には安心されるように、友だちには信ぜられるように、若ものには慕われるようになることだ。」と

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より、一部抜粋

好々爺のイメージもありますが、自分の理想を守る激しい一面があったのが孔子という人です。

 

また、弟子たちはどのように孔子を見ていたのでしょうか?

『子は温にして厲(はげ)し。威にして猛ならず。恭しくして安し。』述而第七の三十七 / 7-37

◆先生はおだやかでいてしかもきびしく、おごそかであってしかも烈しくはなく、恭謙でいてしかも安らかであられる。

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

ちょっとほめ過ぎのような気もしますが、門弟が敬意を持った目線と解釈しましょう。笑

 

「論語」には、孔子の貴重なオフショット(?)も記載されています。

『子の燕居(えんきょ)、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。』述而第七の四 / 7-4

◆先生のくつろぎのありさまは、のびやかであり、にこやかである

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

9尺6寸(現在の2m20cmくらい)と伝えられる孔子が、夕方の陽だまりであくびをして、くつろいでいる。

なんか記述している門弟の暖かいまなざしも敬意がこもっていて良いですね

 

「タカ派?」の孔子

「論語」や、孔子を「物腰柔らかい好々爺のハト派」とイメージされている方は多いかと思います。

しかし、孔子は前述の五十代の頃にも政敵である少正卯(しょうせいぼう)を誅殺したりと、自らの理想に関して妥協をしない姿勢が見て取れます。

もちろん時代性もありますが、意外に思う方も多いでしょう。

 

さらに、昔の教科書には「夾谷(きょうこく)の会」の故事についての記述もあったそうです。

これは国境をめぐって争っていた二国(魯と斉)の和睦の儀式で、孔子は総責任者としてその任をあずかりました

その席で魯の国側の演目を中断して、なんと非礼をはたらいた芸人をその場で処刑(四肢切断)してしまいます。

 

・・・実はその前に舞台に上がった斉の国の芸は、魯を威嚇する示威的な演目だったので、孔子は芸人を舞台から下げさせていました

孔子は自国側(魯の国)の非礼に関しては、より厳粛に対処したのです。

 

一連の孔子の対処は君子の道にかなったものだったので、非礼を犯して面目の潰れた斉の景公は、領土の一部を魯に返還して謝罪するに至りました

この故事が伝えるところは「君子の道」の一例でしたが、このような厳しい孔子の一面が教科書から抜け落ちてしまうと、私も当初は持っていた「孔子=論語=ハト派」のイメージとなってしまいます。

 

孔子のこの二面性は理想郷を目指したゆえのもので、現代の感覚でもある程度は理解できるところであります。

この人間らしさが、また良いですよね。

 

【コラム】孔子の食生活・・・よく食べて、よく飲んだ?

孔子の人間臭いところが好きですが、食生活のエピソードは特に私のお気に入りです。

有名な箇所ですが、孔子の食生活を記した章句があります。

『食(いい)は精(しらげ)を厭(いと)わず。膾(なます)は細きを厭わず。

食の饐(い)して餲(あい)せると魚の餒(あさ)れて肉の敗(やぶ)れたるは食(く) らわず。

・・・唯(た)だ酒は量なく、乱に及ばず。』郷党第十の八 10-8

 

◆飯はいくら白くとも宜しく、なますはいくらこまかくとも宜しい。

飯がすえて味変りし、魚がくさり肉がくされば食べない。

・・・酒についてきまった量はないが乱れるところまではいかない。

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より、一部抜粋

当時の典型的な中国人の食生活が続き、食に対する慎重な孔子の姿勢が垣間見えます

・・・見方を変えると、食にうるさい感じもしないでもありませんね

後半に有名なお酒に関する語句も含まれていますね、「唯(た)だ酒は量なく、乱に及ばず。」と。

 

このように、孔子は他の聖人に見られない特徴として「よくお酒を飲んだ」そうです。笑

しかも孔子はお酒に強かったそうで、こんな事を豪語する章句もあります。

『酒の因(みだ)れを為さず。何か我に有らんや。」子罕第九の十六 / 9-16

 

◆酒のうえでのでたらめはしない。(それぐらいは)わたくしにとって何でもない。」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より、一部抜粋

 

先ほどの「唯(た)だ酒は量なく、乱に及ばず。」ですが、こんな笑い話もあります。

・・・なお、冗談的な解釈として、右の文中の「唯酒無量、不及乱」を「不及、乱(およばざれば乱る)」と切り、

孔子は「お酒は量を決めずにどんどん飲まれたが、量が足りないとお乱れになった」と説く笑い話もある。

出典:『本当はあぶない「論語」』NHK出版新書より

孔子がお酒に強いイメージの文脈を知っていると、この笑い話もまた面白く感じられますね。

 

孔子の弟子(四科十哲/孔門十哲)たちなど

孔子の弟子は一説には3000人ほどいたといわれていますが、出たり入ったりした多くの門弟がいたのでしょう。

実際に常にそばにいたのは15人程度ではないか?とも言われています。

 

ひとくちに3000人と言われてもピンときませんが、2008年の北京オリンピック開会式に「孔子の門弟3000人」を模した演目があります。

こちらが3000人のイメージです。

北京オリンピック開会式の様子(孔子の3000人の門弟)

北京オリンピック開会式の様子(孔子の3000人の門弟) 出典:YouTube(31:46あたりから)

衣装をまとった「3000人の門弟」の数に圧倒されますね!

実際は「孔子学校」に見学に来たり興味を持った人が大勢いて、熱心に孔子の教えを聞いていたのは数パーセントではないかと私は想像しています。(8:2に収れんする「パレートの法則」などから)

 

・・・実際に「論語」に触れだすと登場人物の多さに混乱しがちで、本文に登場する門弟だけでも約30人にのぼり混乱に拍車がかかります

同じような名称も多々ありますので、重要人物をこちらに整理していきます。

 

四科十哲(孔門十哲)

四科十哲(孔門十哲)

孔子の弟子の中でも、最もすぐれた十人と「論語」(先進第十一/ 11-3)で紹介されているのが、「四科十哲(孔門十哲)」です。

(ただし、前述のように「論語」はその後の弟子が編纂したものなので、生前に孔子が挙げた十人かは定かではありません。)

 

最初は覚えにくいかもしれませんが、本文で何回も出てくる門弟はごく少数です。

以下に、「四科十哲(孔門十哲)」を紹介します。

『徳行には顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、
言語には宰我・子貢、
政事には冉有・季路、
文学には子游・子夏。』
先進第十一の三 / 11-3

 

◆徳行では顏淵と閔子騫と冉伯牛と仲弓。
言語では宰我と子貢。
政事では冉有と季路。
文学では子游と子夏。

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

 

こちらを整理すると、もう少し分かりやすいでしょうか。

孔門十哲(孔子十哲)

徳行
①顏淵(がんえん)②閔子騫(びんしけん)③伯牛(はくぎゅう)④仲弓(ちゅうきゅう)

言語
➄宰我(さいが)⑥子貢(しこう)

政事
⑦冉有(ぜんゆう)⑧季路(きろ)

文学
➈子游(しゆう)⑩子夏(しか)

 

「四科十哲(孔門十哲)」でも、名前を赤い字にした二人(顔淵と季路)は「論語」の中で大きな役割を占めています。

 

その門弟の中でも対照的な二人の性格を、孔子がユーモアたっぷりに比較して語っています

『子、顔淵に謂(い)いて曰わく、これを用いれば則ち行い、これを舎(す)つれば則ち蔵(かく)る。
唯(た)だ我と爾(なんじ)と是有るかな。

子路が曰く、子、三軍を行わば、則ち誰と与(とも)にせん。
子の曰わく、暴虎馮河(ぼうこひょうが)して死して悔いなき者は、吾れ与にせざるなり。

必ずや事に臨みて懼(おそ)れ、謀(ぼう)を好みて成(な)さん者なり。』述而第七の十 / 7-10

 

◆先生が顔淵に向かって言われた、「用いられたら活動し、捨てられたらひきこもるという(時宜を得た)ふるまいは、
ただわたくしとお前とだけにできることだね。」

子路(季路のこと)がいった、「先生が大軍をお進めになるとしたら、誰といっしょになさいますか。」
先生はいわれた、「虎に素手で立ち向かったり河を歩いて渡ったりして、死んでもかまわないというような(無鉄砲な)男とは、わたしは一緒にやらないよ。

どうしてもというなら、事にあたって慎重で、よく計画をねって成し遂げるような人物とだね。」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

優等生で孔子が目をかけた顔淵と、危なっかしくて見ているこちらが冷や冷やする季路は、この「四科十哲」でも対比が際立つ門弟です。笑

 

最愛の門弟ながら急逝・・・「顔淵(顔回)」

賢なるかな回(顔淵)や

顔淵(がんえん/顔回とも呼ばれる)は、孔子最愛の弟子で孔子が七十二歳のときに四十一歳の若さで亡くなっていますが、この顔淵を孔子は「論語」の全編でとにかくベタ褒めしている特別な門弟です。

顔淵

顔淵 (出典:Wikipedia

『子の曰わく、賢なるかな回や。
一箪(いったん)の食、一瓢(いっぴょう)の飲、陋巷(ろうこう)に在り。

その憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず。
賢なるかな回や。』
雍也第六の十一 / 6-11

 

◆先生がいわれた、「えらいものだね、回(顔淵のこと)は。
竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので、せまい路地のくらしだ。

他人ならその辛さに耐えられないだろうが、回は(そうした貧窮の中でも)自分の楽しみを改めようとしない。
えらいものだね、回は。」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

「賢なるかな回や」と二回も言っていますが、目を細めて嬉しそうにする孔子の姿が浮かんできそうな章句ですね。

何だかこちらも嬉しくなってきます。笑

 

他の章句でも、魯の国の君主である哀公が孔子に「お弟子さんの中で、誰が学問好きと言えるか?」と聞かれて、「顔回です。他に聞いたことがありません(雍也第六の三 / 6-3)と答えるなど、とにかく孔子からの信頼を受けた門弟でした。

 

若くして顔淵を亡くし、孔子は「天はわしをほろぼした、天はわしをほろぼした(先進第十一の九 / 11-9)と我を失い錯乱してしまい、弟子の為に激しく身を震わせ慟哭(どうこく)します。

『顔淵死す。子これを哭(こく)して、慟(どう)す。
従者の曰く、子慟せり。

曰わく、慟すること有るか。
夫(か)の人の為めに慟するに非ずして、誰が為にかせん。』
先進第十一の十 /11-10

 

◆顔淵が死んだ。先生は哭泣して身をふるわされた。
おともの者が「先生が慟哭された!」といったので、

先生はいわれた、「慟哭していたか。
こんな人のために慟哭するのでなかったら、一体だれのためにするんだ。

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

孔子の受けた絶望たるや、こちらも身をつまらせられる思いがします。

 

登場回数1位で、やくざ上がり・・・「季路(子路)」

野なるかな由(季路)は

季路(子路ともよばれる)は「論語」の中では言及されませんが、孔子と会った当初は「街のゴロツキ」みたいなもので、当初は孔子にも非礼だったといわれています。

そんな季路でしたが、孔子に触れるうちに感化され、ついには熱心な門弟に至ります。

季路(子路)

季路 (出典:每日頭條

 

実は、この季路は「論語」の登場回数で断トツの1位です。笑

「論語」登場回数ランキング

1位 季路(41回)/ 四科十哲(政事)
2位 子貢(37回)/ 四科十哲(言語)
3位 顔淵(20回)/ 四科十哲(徳行)
3位 子夏(20回)/ 四科十哲(文学)
3位 子帳(20回)/ その他の門人

※当サイト調べ(参考図書:『論語 金谷治訳注』岩波文庫)

私が実際に手で数えて他でも確認しましたが、登場回数41回で堂々の1位は季路(子路とも呼ばれる)でした。
(因みに、惜しくも2位は子貢の37回で、前述の顔淵は3位で20回の登場。)

 

「論語」で取り上げられる回数が多かったのは、他の門弟と比べて出自が異質なためにネタにしやすかったのでしょう。笑

街のゴロツキだったとはいえ、勇を好んだ真っすぐな性格だったことは「論語」本編からも十分に伺えます。

 

孔子もそんな真っすぐな季路を、よくからかったりしています

『子の曰わく、道行われず、筏(いかだ)に乗りて海に浮かばん。
我れに従わん者は、其れ由(ゆう)なるか。子路これを聞きて喜ぶ。

子の曰わく、由や、勇を好むこと我れに過ぎたり。材を取る所なからん。』公冶長第五の七 / 5-7

 

◆先生がいわれた、「道が行なわれない、(いっそ)いかだに乗って海に浮かぼう。
わたくしについてくるのは、まあ由(ゆう:季路/子路のこと)かな。子路がそれを聞いて嬉しがったので、

先生はいわれた、「由よ、勇ましいことを好きなのはわたくし以上だが、さて、いかだの材料はどこにも得られない。

論語/季路(子路)のいかだの材料は?(公冶長第五の七)

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

無分別の季路は、孔子の冗談を本気で受け取りかねません。笑

実際に、不安定ないかだで孔子と二人で未知の世界を求めて海に出ることを想像しても、つい嬉しさが先に立ってしまうのが季路という門人の性格だったのでしょう。

 

一人の門弟として師匠に直々に指名されて喜んだ様子の季路でしたが、師匠格の孔子は弟子の性格をたしなめる責務があります

「材を取る所なからん(さて、いかだの材料はどこにも得られない)。」と孔子は遠回しに季路の性格をたしなめましたが、実直な季路はどのように感じたのでしょうか。

大変に興味のあるところです。

 

「論語」の本編で孔子は、何度か季路の性格を「野なるかな、由や(がさつだね、由は)」と直接たしなめるシーンもあります。

季路は孔子に平気で口答えをするような門人でもありました(子路第十三の三 / 13-3)

 

孔子はそんな手にかかる門人の季路の身を案じていましたが、この性格ではろくな死に方はしないだろうと予感めいたものです。

『子楽しむ。
曰わく、由がごときは其の死を得ざらん。』
先進第十一の十三 / 11-13

 

◆先生は(優秀な門人にかこまれて)楽しまれた。
ただ、「由のような男は、ふつうの死にかたはできまい。」といわれていた。

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より、一部抜粋

・・・孔子の嫌な予感は的中してしまいます

 

季路は衛の国の高官(荘園管理士)にとりたてられたが、衛の国の君位を争う内乱で命を落とします

季路の亡骸は見世物にするための「醢(ししびしお:「食肉を食用や保存用に処理するための塩漬け」を転用した刑罰)」にされてしまいました。

孔子はその話を伝え聞いて、家にあった醢(ししびしお)を全て処分したと伝えられます。

 

前述の顔淵も季路も対局な性格の二人の門弟でしたが、孔子に深く愛されながらも孔子より先に亡くなってしまうなど、これも逆縁といったところでしょうか。

運命の皮肉とはつらいものです。

 

その他の門人から、孟子や渋沢栄一までの系譜

「論語」内で門弟は、前述の「四科十哲」の他にも出てきますし、時代を経て孔子の孫である子思(しし)に教えを受けた重要人物である孟子(もうし)もいます。

 

私は渋沢栄一の系譜を辿るために、この「論語」のコンテンツを書いていますので、その系譜をパワーポイントで整理いたしました。

孔子から渋沢栄一までの系譜

孔子から渋沢栄一までの系譜  ※画像をクリックで拡大します

 

「論語」以降の孔子から渋沢栄一までの系譜をかんたんに網羅しましたので、以下にその概要を記します。

 

「論語」内で登場する他の門人・・・「曾子」「有子」など

前述の「四科十哲」の他に孔子の門人が登場しますが、一度しか登場しない人もいます。

その他の門人は二十人いますので、こちらに列挙します。

四科十哲以外の門人

曾子(そうし)
→ 孔子の門人。後世への伝承にとって重要な人物。『孝経』の著者と伝えられ、また『曾子』という書物もあった。『論語』中の門人で必ず「子」をつけてよばれるのは、曾子だけ。有子と冉子と閔子とは、あざ名でよばれる。
有子(ゆうし)
→ 孔子の門人。容貌が孔子に似ていたので、孔子の死後、学団の中心に立てようとする企てがあった。
・子禽(しきん)
・樊遅(はんち)
・子張(しちょう)
・公冶長(こうやちょう)
・南容(なんよう)
・子賤(しせん)
・漆雕開(しっちょうかい)
・公西赤(こうせいせき)
・申棖(しんとう)
・原思(げんしゅ)
・巫馬期(ふばき)
・牢(ろう)
鯉(り)
 孔子の子。『孔子家語』によれば、孔子の六十九歳のときに死んだ。伯魚—孔子の子、鯉のこと。
・子羔(しこう)
・曾皙(そうせき)
・司馬牛(しばぎゅう)
・陽膚(ようふ)

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より筆者がピックアップ

チョイ役(?)の門人とのやり取りもまた、普段の孔子学団の様子が伺い知れて大変に興味深いところです。

四科十哲以外のやり取りも、「論語」の一部なんですよね。

 

赤字にしましたが、曾子(そうし)と有子(ゆうし)のみに「先生」と意味する「子」がつけられたのは、この「論語」を編纂したのが彼ら二人の弟子だったからとした説があります。

 

彼ら二人は孔子の晩年に門弟になった世代で、年齢は孔子と四十歳近く離れています。

やくざ者あがりの季路(子路)とは三十歳近く離れているので、門弟同士で意見が合わなかったとする説もあるのは頷けるところです。

 

・・・この両者(曾子と有子)が登場するのは、「論語」本編で巻頭を飾る「学而第一」のはじめのほうで、何か示威的な感じがしますね。笑

 

孔子の教えを発展させる「性善説」「王道政治」を掲げた・・・「孟子」

孔子の死後、百数十年後に孔子の教えを守ろうと現れたのが、孟子(もうし)です。

孟子は、孔子に次ぐ聖人として「亜聖(あせい)」とされています。

 

孔子の門弟である曾子(そうし)の弟子が、孔子の孫である子思(しし)で、孟子はその子思に教えを受けているので、孔子直系の系譜といえるでしょう。

孟子

孟子(出典:Wikipedia

 

孟子の活躍した時代は戦国時代で、諸子百家と呼ばれるさまざまな思想流派が入り乱れていました

その混迷の時代に孔子の思想を受け継ぐ「王道政治」の理想を掲げ、孔子の後継者を自任していましたのが「孟子」その人です。

 

・・・残念ながら、孟子も孔子と同じように理想主義者だったために、生前にはその理想は成就しませんでした。

孟子に面会した梁(りょう)の恵王のことばに、「迂遠(うえん)にして事情に疎(うと)し」と残されていますが、時の為政者としたらやはりまどろっこしかったのでしょう。

 

「性善説」や「王道政治」などで孔子の教えを発展させましたが、結局は当時の為政者に迎合したものを打ち出せませんでした

孟子が遊説を断念した後の晩年は、(孔子と同じように)後進の指導や書物を書き上げてその一生を終えました。

 

孟子の死後しばらくは、その書物である「孟子」は全く評価されませんでしたが、およそ千年後の長い時を経て脚光を浴びることになります。

 

中興の祖で「論語」「孟子」を一級書にした・・・「朱子」

孔子の教えである儒教を11世紀に再定義したのが、南宋の朱熹(朱子)でした。

朱熹(朱子学)

朱子(出典:Wikipedia

朱子がそれまで二級の書だった「論語」や「孟子」を「四書五経」という枠組みに入れ、
「四書(論語、孟子、大学、中庸)」を「五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋」に次ぐ書と位置づけました。

 

「四書五経」は、朱子の死後に評価されます、

やがて科挙(官僚の採用試験)にも採用され、「論語」の普及に貢献しました。

 

朱子学はおよそ二百年後に王陽明(おうようめい)が批判し、改めて体系化したものを「陽明学」として伝承します。

この朱子学と陽明学は共に日本にも影響を与え、大塩平八郎の乱や明治維新の思想にもつながっていきました。

 

「論語と算盤」で成就させた日本の資本主義・・・「渋沢栄一」

渋沢栄一

渋沢 栄一(出典:渋沢栄一ミュージアム

渋沢栄一に関しては、こちらに詳細は記しました。

渋沢は学術に偏った朱子学を批判的に捉えており、講義録の「論語と算盤」のなかでも、後世の学者を「やかましき玄関番」と評しています。

 

「論語をそのまま読んでも意味は十分に通じる」と渋沢は言っていますが、当時の大漢学者(三島中州や信夫恕軒など)の教えを受けたりと、学術と実践のバランスに長け、日本の資本主義のベースを整備した大人物です。

 

「論語」が出典の熟語やことわざ

「論語」はわずかな文章量(漢字にして13000字程度)ですが、名言名句の類が多く残されています。

時代を経て「熟語」や「ことわざ」になり、私たちの身の回りに溶け込んでいる論語のことばは数多くあります

ここではそんな「論語」にまつわることばを集めてみました。

 

熟語になった「論語」のことば(十七連発)

熟語になった「論語」のことば

四文字熟語などは「論語」や他の書物が由来かな?と察しがつきますが、意外と漢字二文字の熟語も「論語」が由来のものがあります。

挙げたらきりが無いほどで他にもたくさんありますが、私が気になったことばを並べてみました。

 

また、例によって末尾に索引をつけてあるので、興味のあることばがあったら、本文での使われ方の目安としてくださいませ。

一、「有朋(ゆうほう)」

◆「朋(とも)あり遠方より来たる」から。
(学而篇第一の一 / 1-1)

二、「三省(さんせい)」

◆「吾、日に吾が身を三省す」から。孔子の門弟の曾子(そうし)のことば。書店大手の「株式会社三省堂書店」の社名もこの章句から。
(学而篇第一の四 / 1-4)

三、「志学、而立、不惑、知命、耳順、従心(しがく、じりつ、ふわく、ちめい、じじゅん、じゅうしん)」

◆孔子が十代から七十代までの心持ちを述べたことから。中でも四十代の「不惑(ふわく)」が有名。
(為政第二の四 / 2-4)

四、「温故知新(おんこちしん)」

◆「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」から。この語句に続く「(それにより)人の師となることができる。」までが一つの章句。
(為政第二の十一 / 2-11)

五、「木鐸(ぼくたく)」

◆金属製の大鈴で舌(ぜつ:中に垂れ下がる鈴を打つ振子)を鳴らし、お触れを知らせる。

金属製が軍事用、木製が教育用にて使い分け、孔子を木鐸に例えている。かつてのマスコミが「社会の木鐸たれ」としたことが知られている。
(八佾第三の二十四 / 3-24)

六、「一貫(いっかん)」

◆孔子が門弟の参(さん:曾子のこと)に、「わが道は一つのことで貫かれている」と道徳項目である「恕(じょ)」を述べたことによる。
(里仁第四の十五 / 4-15)

七、「有鄰(ゆうりん)」

◆「徳は弧ならず、必ず隣有り」から。
(里仁第四の二十五 / 4-25)

八、「敬遠(けいえん)」

◆「鬼神を敬して之(これ)を遠ざく」から。鬼神は現在の神霊ぐらいの意味。
(雍也第六の二十二 / 6-22)

九、「述作(じゅっさく)」

◆「述(の)べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む」から。本を書きあらわすこと(著述や著作)をさすようになる。
(述而第七の一 / 7-1)

十、「啓発(けいはつ)」

◆「憤(ふん)せざれば啓(ひら)かず。悱(ひ)せざれば発(おこ)さず」から。気が付かずもやもやしている人に教え導くことをさすようになる。
(述而第七の八 / 7-8)

十一、「暴虎馮河(ぼうこひょうが)」

◆意味は「虎に素手で立ち向かい、河を歩いて渡るような無鉄砲なさま」で、孔子が季路(子路)の性格をたしなめた章句から。
(述而第七の十 / 7-10)

十二、「発奮(はっぷん)」

◆「憤(いきどお)りを発して食を忘る」から。子路(季路)が楚(そ)の国の長官に孔子のことを尋ねられたが答えられず、孔子がこのように答えよと述べた。
(述而第七の十八 / 7-18)

十三、「克己復礼(こっきふくれい)」

◆「己に克(か)ちて礼に復する」から。「克」は勝つという意味の他に抑えるという意味もあり、現在では社会の規範にかなった行いとなる。顔淵が孔子に「仁」について尋ねた章句より。
(顔淵第十二の一 / 12-1)

十四、「和同・同和(わどう・どうわ)」

◆「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」から。
(子路第十三の二十三 / 13-23)

十五、「弘道(こうどう)」

◆「人能(よ)く道を弘(ひろ)む。道、人を弘むるに非ず」から。意味は「人が道徳を身につけてゆくのであって、道徳が人間を高めるわけではない」として、孔子は門弟が頭でっかちになることを危惧した。
(衛霊公第十五の二十九 / 15-29)

十六、「道聴塗説(どうちょうとせつ)」

◆「道に聞きて塗(みち)に説くは、徳を之れ棄つるなり。」から。意味は「道ばたで聞いてそのまま道で話しておわりというのは、徳を棄てていうるようなものだ。」として、学んで良い気分になるだけのことを危惧した。
(陽貨第十七の十四 / 17-14)

十七、「博学・篤志(はくがく・とくし)」

◆「博(ひろ)く学んで、篤(あつく)志(しる)す」から。意味は「広く学んで志を固くする」と仁の徳について述べた、孔子の門弟である子夏のことば。
(子張第十九の六 / 19-6)

 

ことわざ/成句になった「論語」のことば(二十三連発)

ことわざになった「論語」のことば

名文として有名なフレーズは、新聞や本を読んでいてもよく引用されています。

たまに政治家の答弁でも聞かれるなど、かつての高級言語であった漢学は日本の文化に浸透していると思う次第です。

また、漢文が由来なので、シンプルで飽きがこない趣がありますね。

 

「論語」の名フレーズの数々をご覧ください。

一、「巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すく)なし仁」

◆言葉巧みで飾りたてたり、善人らしく装うのは、他者に対する気持ちや配慮が少ないということ。
(学而第一の三 / 1-3)

二、「和をもって、貴(たっと)しと為す」

◆「礼のはたらきとしては調和が貴いのである。」何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良いということ。
(学而第一の十二 / 1-12)

三、「君子は器ならず」

◆教養人で人のうえに立つ君子は、一つのことにかたよる専門家ではなく、全体を見ることができる。
(為政第二の十二 / 2-12)

四、「学びて思わざれば、則(すなわ)ち罔(くら)し。思いて学ばざれば、則ち殆(あやう)し」

◆知識や情報をたくさん得ても、どう生かせばよいかわからない。また、思考するだけで、知識や情報がないと独善的になる様子をいった。
(為政第二の十五 / 2-15)

五、「知らざるを知らずと為(な)せ。是(こ)れ知るなり」

◆元やくざ者で実直な子路(季路)に、孔子が言い聞かすように伝える章句からです。意味は「知らないことは知らないとしよう、それが知るということだよ」です。因みに「論語」の登場回数ダントツ1位(41回)の子路が、初めて登場するシーンとなります。
(為政第二の十七 / 2-17)

六、「義を見て為(な)さざるは、勇なきなり」

◆人としておこなうべき義務と知りながら、無関心を装うのは勇気が無いといえる。
(為政第二の二十四 / 2-24)

七、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」

◆もし、ある日の朝に(求めていた)道が得られたと悟ることができたら、その日の夕方に死んだとしても後悔は無いとしたもの。
(里仁第四の八 / 4-8)

八、「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」

◆君子たるものは「正義」に気を向けるが、小人は「利益」に気を向ける。
(里仁第四の十六 / 4-16)

九、「一を聞いて十を知る」

◆孔子が最も評価した門弟である顔淵(顔回)の物分かりの良さを、このように評した。
(公冶長第五の九 / 5-9)

十、「一箪(いったん)の食、一瓢(いっぴょう)の飲」

◆孔子の最愛の門弟である顔淵(顔回)の、質素な暮らしに楽しみを見出す姿に目を細める孔子のことばから。清貧を受け入れる生活のたとえに。
(雍也第六の十一 / 6-11)

十一、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」

◆門弟の子貢(しこう)が最高道徳の「仁」について尋ねた問いに対する孔子の答えです。
(雍也第六の三十 / 6-30)

十二、「過ぎたるは、猶(なお)及ばざるがごとし」

◆「中庸(ちゅうよう)」を説明したとされる章句より。意味は「多いことは少ないことと同じで、両者ともあまり良くないこと」である。門弟の子張(しちょう)と子夏(しか)のどちらが優れているかを聞かれての、孔子の答え。
(先進第十一の十六 / 11-16)

十三、「剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し」

◆意味は「口数は少ないが、意志が強く素朴な人物」こそが仁に近いとする。前述の「巧言令色(こうげんれいしょく)」と対になることば。
(子路第十三の二十七 / 13-27)

十四、「天を怨(うら)みず、人を尤(とが)めず」

◆孔子が「私の価値を知る者はいないなあ」と漏らしたところに続けたことば。最善を尽くしてきたことを知るのは「天」のみだと語った。
(憲問第十四の三十七 / 14-37)

十五、「君子固(もと)より窮(きゅう)す、小人窮すれば斯(ここ)に濫(みだ)る」

◆孔子が六十四歳のときといわれる章句で、魯の国の退廃ぶりに流浪の民として各国を遊説していましたが、陳の国で食料が尽きてしまいました。

気の短い子路(季路とも)がくってかかった際に、孔子が答えたセリフです。「もちろん、君子も困窮することもあるが、小人はここでパニックを起こしてしまうものだ」と子路を諭します。
(衛霊公第十五の二 / 15-2)

十六、「己の欲せざる所、人に施す勿(な)かれ」

◆他の宗教の経典や哲学にもみられる『黄金律(Golden Rule)』で聖書やコーランなどに同じような意味のことばがありますが、「論語」での『黄金律』にあたる章句となります。

ここでは門弟の子貢(しこう)の「一生を通していけることを一言で」という問いに対する孔子の答えで「恕(じょ)の説明をしています。
(衛霊公第十五の二十四 / 15-24)

十七、「過(あやま)ちて改めざる、これを過ちという」

◆過ちを正せと「論語」の中では、この章句以外で複数回(学而第一の八 / 1-8 と 子張第十九の八 19-8)でも述べられている。
(衛霊公第十五の三十 15-30)

十八、「仁に当たりては、師にも譲らず」

◆道徳の実践においては、「たとえ自分の先生に対しても一歩も譲らない」とした孔子の決意。
(衛霊公第十五の三十六 / 15-36)

十九、「辞(じ)は達するのみ」

◆文章を書く場合に、人に伝わるようことを心掛けよとしたもの。美辞麗句を並べた自己満足な文章ではなく、相手に配慮してはじめて伝わる。
(衛霊公第十五の四十一 / 15-41)

二十、「性、相(あい)近し。習い、相遠し」

◆人間は先天的に差があるものではなく、後天的な(学習)で差が生まれてくることを述べたもの。
(陽貨第十七の二 / 17-2)

二十一、「鶏を割くに焉(いずく)んぞ、牛刀を用いん」

◆小さなこと(鶏)を処理するのに、大ぶりな牛用の刀を使う必要はないとの例え。孔子が田舎町の武城を訪れたときに、民家から国政で歌われる礼楽が聞こえてきたことから、このようにつぶやいた。

・・・しかしその後、弟子の子游’(しゆう)に「礼楽を嗜むことは、道徳を身につける君子の道だと、昔先生(孔子)に教わった」と伝えると、孔子は慌てて「今のは冗談だよ」とたわむれてみたとする章句より。
(陽貨第十七の三 / 17-3)

二十二、「郷原(きょうげん)は、徳の賊なり」

◆「郷原」は「村の善い人」をさすが、ここでは「皆に愛想を振りまく八方美人」が真意で、その言葉や態度は決して道徳的では無く、むしろ道をふさぐような害であると強く非難したことば。「孟子」にも「郷原」について強く非難している記述がある。
(陽貨第十七の十三 / 17-13)

二十三、「可も無く、不可も無く」

◆現在では「良くも悪くもないような突出しないようなレベル」といった意味だが、この章句では「自分の理想に対して、現実に妥協するか否か」といった命題に対して、

「私(孔子)は、世捨て人にも表舞台に出るのも、その進退は自由に行き来できる。進もうが退こうが決めもしない(可も無く不可も無く)」といった文脈で語られている。
(微子第十八の八 / 18-8)

 

その他の「論語」にまつわる言葉など(たった二発)

その他「論語」にまつわることば

「論語」にまつわる言葉は意外に少ないことに気が付きました。故事成語が充実しているのもあるのかなと思いました。

「犬に論語」

◆道理の通じない者には、何を言ってもむだであるということのたとえ。

→動物関係の類語として、「猫に小判」「豚に真珠」「兎に祭文」「馬の耳に念仏」も近しい概念で使われますね。

「論語読みの論語知らず」

◆表面上の言葉だけは理解できても、それを実行に移せないことのたとえ。

→解釈を広げると「机上の空論」も同義語でしょうか。孔子も渋沢栄一も忌み嫌ったことです。

 

「論語」が由来の落語の演目・・・「厩火事」

落語に「論語」の章句がベースになった演目で、「厩(うまや)火事」というものがあります。

 

とりあえず、こちらが「論語」の元ネタです。

『 廐(うまや )焚 (  )けたり、子、朝(ちょう)より退きて曰わく、人を傷(そこな)えりや。馬を問わず。郷党第十の十三 / 10-13

 

◆廐 が焼けた。先生は朝廷からさがってくると、「人にけがはなかったか。」といわれて、馬のことは問われなかった

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

 

ちなみに、この章句は、明の時代の笑話集「笑府(しょうふ)」にも取り上げられたりと、色々と題材になりやすい有名な章句です。

 

・・・落語の「厩火事」はこんなあらすじです。

けんかの絶えない夫婦のお話。

髪結いで生計を立てる「お崎」は、働きもせず酒ばかり飲んでる(髪結いの)亭主に愛想をつかしつつあった

お崎は仲人に亭主の事について相談をもちかける。

仲人は「論語」の故事を持ち出して、「瀬戸物をわざと割って亭主の気持ちを確かめろ」と提案し、「もし、瀬戸物を気にしているようなら、別れてしまえ」と進言します。

進言を聞いたお崎は、帰ってさっそく亭主の前で瀬戸物を(わざと)壊します

厩火事(落語)/論語

亭主はおどろいて「けがはなかったか?!」と心配します。

お崎は「ありがたいわ。お前さん、そんなに私が大事なのかい?」と喜んで聞き返します。

亭主曰く「あたりめえじゃないか、ケガでもして働けなくなったら、明日から遊んで酒を飲むことができなくなるじゃねぇか」

お崎さん、次は亭主の頭に何かを落としかねません。笑

 

「論語」関連のおススメ本

「論語」の参考図書

 

この記事でも何度か引用している本となります。

①「論語 金谷治訳注」岩波文庫 / 金谷治

②「論語に帰ろう」平凡社新書 / 守屋淳

③「『論語の言葉』一個人特別編集」KKベストセラーズ」

④「本当は危ない『論語』」NHK出版新書 / 加藤徹

※全てAmazonアソシエイトリンクとなります

私は渋沢栄一の「論語と算盤」から「論語」の世界に誘われたので、自ずと①②③④の順番で手に取りました。

①は現在出版されている「論語」の中で最もベーシックな教材で、旧注や新注の解釈を踏まえたシンプルな解説が「論語」本文を邪魔しないもので大変に助かります。

 

この本を手元に置きつつ、「論語と算盤」に明るい守屋淳氏の②を読み進めた次第です。

守屋淳氏は大学卒業後に書店大手へ10年ほど勤めた経験があるので、現代ビジネスもとい現代サラリーマンの文脈で「論語」の世界を繋げてくれる貴重な存在ですね。

 

③は元々は雑誌のムックで2010年にコンビニなどで販売されていたものが、再編集されたものです。

雑誌風に写真や図解が入った独自の企画などが豊富です。

 

④は「論語」をよくある「道徳的なきれいな面」だけではないことを、バランスよく言及されています。

書籍のタイトルがたまに目にする「アンチ論語派」が書くようなニュアンスに取られますが、著名な中国文学研究者で『漢文力』や「漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?」などの書籍も大変参考になります。

 

【コラム】独自に編集しないと読み難い?・・・「論語」の解説書

・・・恥ずかしながら、以前私が①「「論語 金谷治訳注」岩波文庫 」に挑戦して途中で挫折したのは、 最初からそのまま読んでしまったことが原因でした。

「論語」を編集した弟子には悪いのですが、最初はどのように読ませるかという編集的な配慮はあまり無いような気がしました。

 

現在、書籍で販売されている本は 何かしらのテーマの元に編集されてることが多いのが特徴です。

いくつか例を挙げてみます。

「論語に帰ろう(平凡社新書)」の編集

・第一章 / 「仁」と「恕」—-世界に、未来に愛を広める
・第二章 / 「知」と「勇」—–人の上に立つ人間に欠かせない徳
・第三章 / 「天命」—–自分の人生を見出し、生きる

 

「『論語の言葉』一個人特別編集(KKベストセラーズ)」の編集

心に響く「論語の言葉」
・日常生活に根付いた「論語」
・生き方の指標になる「論語」
・親子
・学ぶ
・老後

 

「NHK100 de 名著ブック(NHK出版)」の編集

・第1章 / 人生で一番大切なこと
・第2章 / 自分のあたまで考えよう
・第3章 / 人の心をつかむリーダー論
・第4章 / 信念を持ち、逆境を乗り切ろう

 

「論語 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典(角川文庫)」の編集

第二部『論語』のことば
・(一)家族
・(二)友情
・(三)学問
・(四)教養人と知識人と
・(五)弟子とともに
・(六)生き方
・(七)幸福論—-個人として
・(八)幸福論—-政治を通じて
・(九)運命—-そして別れ

このようにさまざまなテーマで編纂されていますが、 現代社会での「論語」の活用は「修己治人」の最初の段階である「己を修める」ことに着目していることが分かります。

・・・最初はこのように編集されている本から、徐々に「論語」のことばに触れるのが良いと思います!

 

日本国内の孔子廟(こうしびょう)

湯島聖堂の孔子像

孔子廟(こうしびょう)は孔子を祀っている霊堂で、孔子の生まれ故郷である現在の中国山東省の曲阜に起こったのが由来とされます。

日本では儒教・儒学の学び舎と合わせたものが多いそうで、孔子の教えや漢詩などが学べる現在では貴重な場所になっています

 

湯島聖堂@東京都文京区

湯島聖堂の入口

日本で一番有名な孔子廟で、JRや丸ノ内線の御茶ノ水駅から徒歩数分なので、かなりアクセス良好な立地です。

JR御茶ノ水駅から湯島聖堂への案内図

湯島聖堂への案内図(画像をクリックで拡大)

都心の喧騒から離れて見上げる孔子像(この章の冒頭の写真)は、実際に見るとその大きさに驚くはずです。

なんでも、こちらの孔子像は世界最大で約4.5mあるそうで、史記に伝えられる「背丈9尺6寸(現在の2m20cmくらい)」のほぼ倍の大きさとなります。

 

漢学の学び舎として、生涯学習の文化講座プログラムも充実していて、「論語の素読」や「故事・名言に親しむ」など、手ごろな価格で学習することができます。

さすが、日本の漢学の中心ですね。

 

こちらでは毎年1月1日に、論語の「素読はじめ」が行われています。

青空の元で私も「陽貨第十七」を読み上げた、平成三十年の参加レポートはこちらです。

 

◆湯島聖堂 〒113-0034 東京都文京区湯島1丁目4−25

※開館時間や休館日や入館料など、詳細は必ず湯島聖堂公式HPをご覧ください。
 

 

長崎孔子廟@長崎県長崎市

こちらは、日本最大の孔子廟と言われています。

観光名所になっているので、検索してみたら下記の動画にたどり着きました。

 

百聞は一見に如かずで、先ずはちらをご覧ください

なんだか長崎の異国情緒の雰囲気が感じられて、湯島聖堂とは違った魅力がありますね~!

「中国歴代博物館」も併設され、貴重な資料も公開されているようですね。

旅行がてらにでも、ぜひ訪問したいものです。

 

◆長崎孔子廟 〒850-0918 長崎県長崎市大浦町10−36

※開館時間や休館日や入館料など、詳細は必ず長崎孔子廟公式HPをご覧ください。

 

足利学校@栃木県足利市

こちらは日本で最も古い学校と言われ、宣教師ザビエルも学業の中心だったことを記しています

天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。

出典:足利学校公式HP

「足利学校の歴史」については、公式の動画も作成されていました。

興味のある方は直接こちらのリンク(YouTube)からご覧くださいませ(なぜか埋め込み禁止でした)。

 

◆足利学校 〒326-0813 栃木県足利市昌平町2338

※開館時間や休館日や入館料など、詳細は必ず足利学校公式HPをご覧ください。

 

閑谷学校@岡山県備前市

岡山藩立の学校として開かれ、建物は32年かけて造られたそうです。

こちらは、閑谷は「しずたに」と読みます。

 

◆閑谷学校 〒705-0036 岡山県備前市閑谷784

※開館時間や休館日や入館料など、詳細は必ず閑谷学校公式HPをご覧ください。

 

至聖廟@沖縄県那覇市

こちらは、日本最南端の孔子廟です。

公式の動画はありませんが、中庭の雰囲気が伝わるものが発掘されました。

沖縄の孔子廟はまた、ほかの地域と雰囲気が違って大変興味深いですね~!

 

◆至聖廟 〒900-0033 沖縄県那覇市久米2丁目30-1

※開館時間や休館日や入館料など、詳細は必ず至聖廟公式HPをご覧ください。

 

隣雲の硯(りんものすずり/この記事のまとめ)

隣雲の硯(りんものすずり/この記事のまとめ)

ここまでたどり着いていただき、ありがとうございました!

我ながら結構な文章量になってしまったので、一回で全て読んで欲しいとは全然思っていません

 

「論語」についてまとめたものをウェブ上に挙げておく意図のために、結構な文章量になっています。

老舗のうなぎ屋さんが秘伝のタレを継ぎ足すように、時間を見つけてコツコツ更新や修正をしていくページとお考え下さいませ。

 

 

・・・さて今回取り上げた「論語」は2000年以上も前から、じわじわと魅力が伝わり東アジアで読み継がれてきた書物です。

約1000年以上の時を経て、朱子によって二級クラスの書から「儒教/儒学」の中核(四書五経)をなす書にまで評価され、現在に至ります。

 

私が感じる「論語」の魅力は、その不完全さにあると思っています。

抽象的でブツ切れのことばが続き、何か良い事を言っていると感じながらも、ある時ある瞬間に様々な章句が繋がってくる体験をします。

これは孫弟子たちが意図的にそのように編集していたわけでなく、孔子のことばが首尾一貫の統一性を持っていたことに起因する現象だと思います。

 

歴史上で「論語」を読んだ先人達がが思ったことだと感じますが、その編集の不完全さゆえに「わたしが整理したい」と読む人の心を動かすところにも「論語」の隠れた魅力があるのでしょう。

かくいう私も整理しようと思い立ったら、「論語」本編の登場人物の相関図を整理してみたり、「子曰わく」の登場回数を手で数えだしたりと奇行を繰り返しました。笑

 

「孔子ファン」の古い先達の一人である歴史家の司馬遷(しばせん)はその歴史書「史記」で孔子のことばとして引用した箇所があります。

(中略)司馬遷がここで引用した孔子の言葉、

「我、之(これ)を空言に載せんと欲するも、之を行事(こうじ)に見(わらわ)すことの深切著名(しんせつちょめい)なるに如(し)かざるなり」の意味は、

「自分の思想を抽象的な説明で伝えようと思ったが、うまくゆかない。やはり、具体的な事実を述べることを通して伝えるほうが、深く明晰に伝えられる」というものである。

含蓄のある言葉だが、『論語』には見えない。

出典:「本当は危ない『論語』」NHK出版新書

 

 

東アジアを中心に読み継がれてきた「論語」は様々な角度から楽しめるし、渋沢栄一も語っているように「もっとも欠点の少ない教訓」と私も捉えています

現代社会と合致しない部分や自分の感覚にそぐわない部分を削ぎ落しても、「論語」の全512章句のうちの半分は残るはずです。

 

・・・「『論語』の半分もあれば、天下を納めることができる」とした中国の格言ではありませんが、現代の処世術の一つとしてぜひぜひ「論語」を読み直してはいかがでしょうか?

そして、後世にも繋いでいきましょう!

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隣雲(りんも)

隣雲(りんも)

こんにちは、隣雲(りんも)です。
私は東洋思想とマーケティングが好きな、アラフォーの日本人です。

声の大きい狡賢い人よりも、徳の高い人こそが報われる世界があったら良いなと思っています。

・・・私の好きな『論語』に「徳は弧ならず、必ず隣有り」という一節がありますが、
このブログはその一節のように、ビジネスパーソンや起業してその後苦労されている方にとって「必ず隣有り」となるべく発信していきます。

そんな私が、なぜ発信しているか等はこちらのリンク先からどうぞ。

「東洋思想」も「マーケティング」も難しく聞こえますが、実は全然難しくないし、組み合わせると大変役立つ英知だと思いますよ。

これらの話を通して、「自分の価値」や「売り方」を再構築する手法などを、楽しくお伝えする所存です。

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